写真レポートはこちら

幼少期を愛媛県今治市で過ごし、
処女作「広島平和会館原爆記念陳列館」(1952年)や
「香川県庁舎」(1958年)を手がけるなど瀬戸内とも縁の深い建築家です。
そんな丹下健三さんが処女作から「世界的建築家」となっていった10年に焦点をあてた展覧会が
東京・乃木坂のギャラリー間で開催中です。

This exhibition is being held in the 10th year after the passing of the most prominent architect of postwar Japan, Kenzo Tange. This exhibition places its focus on the decade from 1949 to 1959, which spans from when Tange began working on his debut project, the Hiroshima Peace Memorial Museum (1952), to when he completed one of his early important works, the Kagawa Prefectural Government Office (1958)

TANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三

TANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三

日程 : 2015年1月23日(金)~3月28日(土)
場所 : TOTOギャラリー・間 東京都港区南青山1-24-3 TOTO乃木坂ビル3F [Google Maps]
開館時間/11:00~18:00
休館 : 日曜・月曜・祝日 ※ただし3月22日(日)は開館
入場 : 無料

シンポジウム「丹下健三没10年『今、何故、丹下なのか』を問う」
日時/2015年3月22日(日)13:00開場、14:00開演
事前申込制

戦後日本を代表する建築家 丹下健三の没後10年の節目に開催する本展は、処女作「広島平和会館原爆記念陳列館」(1952年)のプロジェクト開始から初期代表作のひとつ「香川県庁舎」(1958年)完成までの10年間(1949~59年)に焦点を当て、丹下自らが撮影した35mmフィルムのコンタクトシートを通してその初期像を紹介します。日本の再生を担う建築家のひとりとしてデビューした丹下健三は、初の外遊を果たし、「世界のKenzo Tange」になっていったこの10年間、自らカメラを携えて撮影を行い膨大な数の写真を遺しました。写真には自身の作品のみならず、桂離宮・龍安寺をはじめとする伝統建築やル・コルビュジエ作品、外遊中に交流した海外の建築家たちの姿も含まれ、この時代の活動の克明な証言集となっています。現物としては本展が初公開となる70余点に及ぶコンタクトシートには、所々に自身によるトリミング指示の赤線が引かれ、若き丹下がどのように建築と対峙したのか、建築家の思索と葛藤の痕跡を生々しく伝えています。またこの展覧会に併せ、丹下の10回忌に当たる2015年3月22日(日)に記念シンポジウムを開催いたします。本展ゲストキュレーターである豊川斎赫(さいかく)氏をモデレーターに迎え、本展監修者である岸和郎氏ほか、建築家、歴史家の方々にご出演いただき、丹下健三の作品とその建築家像について多角的に検証していただきます。

TANGE BY TANGE 1949-1959/KENZO TANGE AS SEEN THROUGH THE EYES OF KENZO TANGE

Date : Friday, January 23 – Saturday, March 28, 2015
Open : 11:00 – 18:00
Closed : on Sundays and Mondays except March 22 (Sun)
Admission : Free

In this decade during which Tange debuted as one of the architects charged with the task of rebuilding Japan, made his first journey overseas, and became known as “Kenzo Tange of the World”, he left behind a vast number of photographs that he took himself with his camera. The photographs capture not only his own work but also works of traditional architecture, such as the Katsura Imperial Villa and Ryoanji Temple; the work of Le Corbusier; and also moments that he spent in the company of foreign architects during his travels, and they form an elaborate record of his activities during this period. The more than 70 original contact sheets that are being shown in public for the first time in this exhibition are marked in places with red trimming lines that were drawn by Tange himself. These lines reveal how the young Tange had been engaging with architecture, and they vividly convey the traces of the contemplations and struggles of the architect. In conjunction with this exhibition, a memorial symposium will be held on March 22, 2015 (Sun.) on the day of the 10th anniversary of Tange’s passing. The event will be moderated by the exhibition’s guest curator, Saikaku Toyokawa. The exhibition’s supervisor, Waro Kishi, will be among the panelists of architects and architectural historians who will discuss the architect Kenzo Tange and his work from many different directions.

丹下健三 – Wikipedia

1913年(大正2年) 大阪府堺市に生まれる。
1920年(大正9年) 父の出身地である愛媛県今治市に家族で移住。今治の第二尋常小学校(現・今治市立美須賀小学校)に編入。
1926年(大正15年) 旧制今治中学(現・今治西高校)入学。
1930年(昭和5年) 今治中学四年修了(飛び級)で旧制広島高校(現・広島大学)理科甲類に進学。同校図書室で見た外国雑誌のル・コルビュジエの記事に感銘を受け建築家を志す。

広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た。浅田孝・大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事1位で入選という形で結実する。
他の設計案が、公園内のみを視野に入れた計画案にとどまったのに対して、丹下は広島市を東西に貫く平和大通り(幅員100m、長さ4Kmにわたる通称100メートル道路)と直交する南北軸線上に、慰霊碑と原爆ドームを配し、その計画案の都市的スケールが、コンペで高く評価された理由である。広島の復興計画において、この市街地を十字型に貫く都市軸を通したことで、第二次世界大戦後の広島市の骨格を作ったのは丹下であると言える。またこれにより、当時は単なる一廃墟に過ぎなかった原爆ドームにスポットライトを当て、中心性を持った都市空間として広島を再建する上での、ランドマークとしての「原爆ドーム」を発見したのは、事実上、丹下であると言うことが出来る。
実際、1966年(昭和41年)7月の広島市議会において、満場一致でその永久保存が決まるまで、「原爆による惨禍の証人として保存する」意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取壊す」との意見の対立があったのである。 しかしながら今日に至ってみれば、日清戦争当時大本営がおかれて臨時首都となり、明治以来、広島城を戴く広大な西練兵場を都心部に抱えた軍都として発展して来た廣島市が、平和都市広島に生まれ変わるためには、広島城に代わる新たなシンボリックな遺構をそこに設定する必然性が確かにあり(原爆で倒壊焼失した広島城が再建されるのは1958年のことである)、それを見抜いた丹下の方に、都市計画家としての先見性があったと評価出来る。

イベントレポート


丹下健三展にやってきました。


最初の建築「広島平和会館原爆記念陳列館」(1952年)から、
「香川県庁舎」(1958年)までの10年間をフィルムのコンタクトシートから読み解きます。


平日にもかかわらず多くの建築関係者や学生さんがこられていました。


愛媛県民館。
1953年10月に開催された国民体育大会のために建設された施設。設計当初、戦時中の古格納庫の払い下げを受けそこで使われた鉄骨材を用いて県民館を建設する計画がなされた。しかし、丹下は広島子供の家においてローコストで大屋根を架ける術を学び、ここでもシェルを用いて直径50mの円形体育館を実現している。


中庭には、香川県庁舎の大きな写真パネルがあります。


丹下研究室が香川県庁舎のためにデザインした椅子。
制作年不明。その後他の作品でも使われ、
丹下氏自身も自邸の庭で愛用していた。
Chair designed by the Tange Lab for the Kagawa prefecturl Government Office.
Year of production unknown.
It was later used in other projects, and Tange himself used it in the yard of his persobnal residence.


二階には映像資料の上映もあります。


今治市庁舎・公会堂。丹下の郷里は愛媛県今治市で、丹下は小・中学校時代をここで過ごした。
当時、丹下の通った中学の先輩で、
後に今治市長となった田坂敬三郎が丹下に市庁舎と公会堂の設計を依頼し、
1958年に竣工している。
先に触れた通り、丹下はRCラーメン構造を素直に外に表現する方法を模索していたが、
RC構造によって新たな空間の創造が可能であることがわかり、
市庁舎と公会堂でこの構造を大胆に実践している。
この設計を担当したのが丹下研究室OBの建築家 磯崎新と茂木計一郎であった。


コンタクトシートをライト付きレンズで閲覧することができます。

50年台を統合する建築から60年代へのプロローグ。香川県庁舎。
丹下は香川県庁舎を実現するにあたり、戦後民主主義を具現化すべく、
市民が集いやすいピロティを掲示し、都市のコアと建築のコアの有機的統合を実現している。
丹下はさらに、日本の古建築を思わせる美しプロポーションと軒下表現を追求し、
「東京都庁舎」で採用したスチールのルーバーに代わって、
RCのバルコニーによる耐久性の向上に努めている。
また、ピロティ部分は芸術家 猪熊弦一郎とのコラボレーションにより、
芸術の統合による公共建築のあり方を示した。


設計当初、香川県庁舎の屋上は一般市民の利用を制限していたが、香川県知事 金子正則の強い希望で屋上を一般市民に開放することとした。現場監理をたんt王した神谷宏治は転落防止用の手摺を急遽取り付け、三角形の日よけ用テントを大胆にデザインし、市民に開かれた屋上庭園を演出した。竣工当時、香川県庁舎の周辺には高い建物がなく、高松市内や瀬戸内海を一望できる絶好の観光スポットとなった。


夜の香川県庁舎。美しいプロポーション。


1958年5月31日

丹下健三 伝統と創造 –瀬戸内から世界へ

TANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三

丹下健三を語る: 初期から1970年代までの軌跡