瀬戸内海の産業遺産、四阪島(しさかじま) The Shisaka island, industrial heritage in Seto Inland Sea.

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銅の精錬で繁栄と公害の道を歩んだ瀬戸内海の産業遺産、
四阪島(しさかじま)に行って来ました。写真レポートはこちらをご覧ください。
I went to Shisakajima which is industrial heritage island in Seto Inland Sea. Photo report is below.


美濃島、上空より撮影 Air photograph – wikipedia

四阪島
四阪島(しさかじま)。2023年10月、瀬戸内海上空より撮影。

瀬戸内海にはこんな島もあります。銅の精錬で繁栄と公害の道を歩んだ島、四阪島(しさかじま)。島の象徴でもある大煙突が解体されるそうです。同じく精錬の歴史がある直島や犬島の歴史とあわせて理解するととても興味深い。

Shisakajima had been a prosperous island by copper refining in Seto Inland Sea. The big chimney which is the symbol of the island will be scrapped. If you learn about the history of finery in Inujima and Naoshima, you can understand more deeply.


大きな地図で見る

四阪島の社宅群(当時)

四阪島(しさかじま)は、瀬戸内海の燧灘、大島 (愛媛県今治市)の南東約10km、愛媛県新居浜市の北約20kmに浮かぶ島である。

正確には、家ノ島、美濃島、明神島、鼠島、梶島の5つの島で構成されるが、一般に「四阪島」と呼称される。行政区は愛媛県今治市宮窪町四阪島となっているが、産業的にも社会的にも同県新居浜市と深いつながりがある。現在、島は住友金属鉱山の工場があり、全島同社の所有(管理下)となっている。人口はゼロ、従業員は定期船で通う。
島の近隣は良い漁場となっており、釣り客が渡船で上陸することもある。四阪島への無許可での上陸は禁止されているが、会社側が黙認しているのが実情である。

沿革・歴史
1691年(元禄4年)に別子銅山が開坑して以来、住友は銅の製錬事業所を、別子銅山麓の山根地区、新居浜港地区と移してきた。しかし、いずれも亜硫酸ガスによる煙害の問題により木が大量に枯死するなどした(同時期、足尾銅山などでもこの問題は深刻化していた)。そこで、やむなく1905年(明治38年)1月に、当時の別子銅山の支配人をしていた伊庭貞剛の決断で新居浜市北方沖合20kmの無人島である四阪島に移すこととなった。
製錬所造成時には、家ノ島と美濃島は埋め立てられ陸続きとなり、家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が設置された。学校は私立の住友四阪島尋常小学校が1901年(明治34年)に設置され、1920年(大正9年)には生徒数1,000人を数えた(なお、同校は1961年(昭和36年)に公立に移管、同時に中学校が分離したが、いずれも1977年(昭和52年)に廃校となっている)。1922年(大正11年)には海底ケーブルにより新居浜市から電気が供給された。これらにより、無人の島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、人口は大正時代に最大5,500人を超え、昭和30年代においても4,000人近くにのぼった。
しかしながら、精錬所が四阪島に移転したことにより、煙害はかえって広範囲に広がる結果となった。被害は1939年(昭和14年)の硫煙処理装置の設置まで続いた。この時の補償金をもって越智郡は学校を設立、今日の愛媛県立今治南高等学校の前身である。
別子銅山の閉山、新居浜東予精錬所の操業開始により、精錬所としての重要性は低下、順次合理化が図られ、1976年(昭和51年)12月に溶鉱炉の火は消え、1977年(昭和52年)4月には一部の工場関係者を除いて島を離れ、小中学校も廃校となった。同じように瀬戸内の離島で大正以降三菱の銅精錬の島となった香川県直島と同じような繁栄と煙害の道を歩んだが、もとから集落の栄えていた直島と異なり、四阪島は1988年(昭和63年)以降人口ゼロの島となった。71年間に精錬した銅は約220万トンにのぼるという。
ただ、1977年(昭和52年)には住友金属鉱山酸化亜鉛の製造工場が完成、従業員が新居浜港から船で通勤することとなった。工場は現在も稼動中であり、毎日新居浜港から事業用の定期便の船が出ており、島内には50人前後の人が従事している。

その他
島内には精錬所のキューポラ、大煙突など多数の産業遺産があり、特に美濃島には最盛期1000戸を数えた階段状の社宅がある。また、保育所、小中学校、病院、郵便局のほか、劇場等の娯楽の場、商店街、神社・寺院さらには火葬場まであったとされるが、全島企業所有地であり、また四国本土からやや距離があることから、観光交流目的での活用は行われていない。昭和50年代まであった島の小中学校の卒業生の集まり等は行われている。
新居浜市とのつながりは郵便番号や電話の単位料金区域(MA)にも現れていて、同じ市外局番0897でも他の今治市の島嶼エリアが伯方MAであるのに対し、四阪島は新居浜MA(新居浜市・旧西条市と同じ)となっている。

四阪島大煙突、解体工事安全祈願 OBら献花 今治 – 愛媛新聞

明治時代、新居浜では製錬過程で出る亜硫酸ガスで煙害が発生。住友は煙害防止のため約20キロ離れた四阪島に工場を移し、1924年に大煙突を建設した。その後の技術革新でガスの中和処理に成功。鉄筋コンクリート製高さ64・2メートルの大煙突は、煙害克服の象徴とされている。

旧四阪島精錬所:大煙突、劣化で解体へ−−住金鉱山 /愛媛- 毎日jp(毎日新聞)

住友金属鉱山別子事業所はこのほど、今治市・四阪島に残る旧四阪島精錬所の大煙突(高さ64・2メートル)を解体すると発表した。大煙突は別子銅山の歴史を伝える遺産であるとともに、漁業者からは漁の目印としても親しまれていたが、劣化が激しいため撤去が決まった。4月中旬から解体作業を始める予定。

 別子銅山は明治時代、銅精錬の際に排出される亜硫酸ガスによる煙害問題を解決するため、新居浜市内にあった精錬所を今治沖約20キロにある四阪島に移転。大煙突は1924年に完成し、39年まで使用された。

写真レポートはこちら – Photo report

2013年4月27日(土)、愛媛県新居浜沖にうかぶ四阪島の大煙突が解体されると聞いて、
せとうち暮らしの男子メンバー4人で四阪島に向かいました。
目的は、瀬戸内海に残る産業遺産の記録。
27th April 2013, We, member of “Setouchikurashi (the magazine of Seto Inland Sea)” went to Shisakajima in order to take photographs and make a record of industrial heritage in Seto Inland Sea.
The big chimney which is symbol of the island will be tore down.


これが、今日お世話になる船。
This is our ship of today.


陸にあがっているので階段から登ります。
We go up stairs of the ship.


これははじめて!レールの上から入水します。
This is the first time to enter to the sea from rails.


ざぶ~んと船ごと瀬戸内海に飛び込んで、いよいよ出発です!
It’s time for your departure. Let’s go to Shisakajima!


今日は波も少なく、絶好の瀬戸内海クルーズ日和。
There are few waves today, it is nice weather for cruise.


海鳥も気持ちよさそうに泳いでいます。
心配なのは、解体が発表された四阪島の煙突がまだ残っているか否か…
Sea bird looks comfortable.
The only thing that worry us when traveling is that the chimney is left at Shisakajima without breakage.


まだ見ぬ、四阪島へ向け、船を進めると。。
Go a head a boat Shisakajima which are not yet even within sight.


煙突のある島影を発見!メンバー一同、大興奮!
We found silhouette of the chimney. We are excited!


瀬戸内海を代表する産業遺産。四阪島の精錬所がいよいよ見えて来ました。
Shisakajima is representative industrial heritage of Seto Inland Sea.
And now We can see the island!


港湾設備が見えてきました。
We can see the dockage.


一斉にカメラをかまえます。
Everybody hold their camera.


四阪島(しさかじま)は、愛媛県新居浜市の北約20km、瀬戸内海に浮かぶ島です。
Shisakajima is located 20km north from Niihama city, Ehime pref.


四阪島のシンボルになっている大煙突。まもなく解体されます。
右の小さい柱は試験棟だそうです。
This big chemney is the symbol of Shisakajima. It will be demolished soon. Right small pillaer is test building.


かつて存在していた6本煙突。(資料提供 別子銅山記念館)
There was six chimneys there before. (Besshi Copper Mine Memorial)


精錬所の向かい、山の中腹にも建物が確認できます。
We can see a hut on the mountainside.


島の人口はゼロ人、従業員は定期船で通っています。
Population is zero in this island.
Workers come here by regular liner.


島は住友金属鉱山の工場があって、島全体が会社の管理下となっていて、一般人の上陸は禁止されています。
現在は亜鉛リサイクルプラントとして稼働しています。
This island is under the control of Sumitomo Metal Mining Co., Ltd. who has factories. general person can’t go on land.


図:頂上大煙突設計図 (資料提供 別子銅山記念館)
Plan of smokestack (the data is provided by the memorial of Besshi copper mine.)


どどどっと、水の音。
冷却水かなにかの産業排水でしょうか、大量の水が滝のように流れています。
Sound of running water. A large volume of water descends into the sea like a water fall. It seems to be industry drainage (cooling water?).


煙突から白い煙。現役で稼働している工場もあるようです。
1977年(昭和52年)には酸化亜鉛の製造工場が完成していて、
新居浜港から通勤する50人前後の人が働いているそうです。
White trails of smoke is floating from the chimneys of the factories. Some factories which is manufacturing plant of Chinese white are still working now. 50 people come from Niihama city and work there.


スラグが堆積してつくられたかと思われる断崖。崩落の危険あり。
The slag is deposited on the ground. It looks falling and danger.


さらに進むと、スラグの向こう側になにやら住宅のような建物がみえてきました。
Moving further inside, we can see some houses.


斜面の段々は、宅地造成された跡でしょうか。
住居用に整備されたこちらの美濃島には、
保育所・小中学校・病院・郵便局・劇場等・娯楽施設・商店街・神社・寺院・火葬場など
都市として必要な物がひと通りそろっているそうです。

The terraced hillside seems to be remains of residential land development. This side of the island was named Minoujima which was prepare for residentiary. There were nursery center, elementary and junior high-school, hospital, post office, theater, amusement facility, shopping center, shrine, temple, crematory. All the necessary living items were provided in the island.


煙の出ている新しい煙突の他に、レンガ造りの古い建物も見えます。
There are old brick warehouses.


よく見ると岩場にも何かの設備の跡でしょうか。
人が生活した痕跡がこんなところにも見られます。
Looking closely, this seems to be some equipment.
We can see traces of human activity.


変形した電信柱。
deformed power pole.


住宅施設。
living accommodation.


紫の桐の花が綺麗にさいています。
Purple paulownia blossoms are blooming beautifully now.


山頂にも建物郡がみえます。
こちらの島(美濃島)には社宅等が設置されています。
There is some buildings on the mountaintop.
This side of the island (Minoujima) was developed as residential area.


学校は私立の住友四阪島尋常小学校が1901年(明治34年)に設置され、
1920年(大正9年)には生徒数1,000人もいたそうです。
Schools are established here in 1901.
There are 1000 students of a local school.


上陸は禁止されているものの釣り人がたくさん上陸していました。
実際には、黙認されているそうです。
Although it’s forbidden to go on land, there is a lot of sports fisherman. In reality, it is on sufferance.


1922年(大正11年)から海底ケーブルで四国側(新居浜市)から電源をひいているようです。
山の中腹にある建物は電源設備でしょうか。
電源が通るようになって、無人の島は別子銅山の製錬所として大きく発展し、
大正時代には、最大5,500人以上も住んでいたそうです。
They lay an undersea cable from Shikoku(Niihama city) on 1922.
After that, the uninhabited island had been developed as a copper smelter of Besshi copper mine.
During the Taisho Period, here is the island of more than maximum 5,500 people.


そして港の建物。現役でクレーン車や働いている人たちがみえます。
邪魔にならないように遠くから撮影。
The port facilities. We can see working people and moving crane. We are taking pictures far from a distance.


四阪島は、正確には、家ノ島・美濃島・明神島・鼠島・梶島の5つの島で構成されています。
家ノ島に精錬所、美濃島には社宅等が建設されていて、
もともと別々だった家ノ島と美濃島という島を埋め立ててつなげています。
It was other island “Ienoshima” and “Minoojima”.
The islands are landfill and be connected.
Ienoshima is developed for finery, Minooshima is for company residence.

四阪島メモ。別子銅山記念館に飾られている模型の前にて、白髪の品のいいおばあちゃんが語ってくれた話をメモしておきます。

昭和55年に同窓生たちと島に渡った。外の人間が島に渡れたのはこの頃が最後だと思う。島に渡る時はなんとも言えないワクワクとした気持ちがあった。別子銅山記念館に飾られたジオラマ模型はその頃のことを鮮明に思い出させてくれるとてもよくできた模型。模型は、館長が大阪の模型製作会社に頼んで作らせたもの。家の位置や、校庭の二宮金次郎の銅像、ミゼット消防車も再現されている。おばさんにとって四阪島は若い頃の本当にいい思い出。島で悪いことをすると警察がすぐに島の外に悪い人を出してしまうので、島はとても安全。この時代に夜道を歩いててもなんともないくらい平和であったのは、とても珍しい。劇場や商店街などがあり、島で働く人たちは給料や様々な面で優遇されていたのだそう。そうした経済的な豊かさが当時の彼女や島に働く人たちやその子どもたちにとって、島が楽園のように映ったのかもしれない。当時の写真に写っている子どもたちの服装はかなり裕福な暮らしを想像させる。工場の排煙の問題はあったが、意外と緑はあったのだそう。模型を見ても住居側の島に緑地が結構あるのが確認できる。写真は白黒なので、実際がどうだったのかは未確認。島には坂が多く手すり(からみれんが?)にはみんなの手跡があり、それも島を歩いた時に当時を思い出させた。学校の先生の独身寮は島のもっとも見晴らしのいいところにあり、新居浜の町がよく見えた。ここに招いてもらって夜にキラキラ光る新居浜の街の明かりを見て、いつかは島を出て行くと心に決めた。島の思い出はいい思い出だけど、島の暮らしが不便だという人の気持ちは少しはわかる。新居浜の町はヤクザの町だと聞いていたが、それでも町への憧れは捨てられなかった。

女性は昭和13年生まれで、中学校卒業まで四坂島に住んでいたそうです。島内には劇場があり、そこで映画を見た話や、商店街(銀座)で買い物をした話など、ほんとうに楽しそうに話してくれました。坂口さんを見て、まるで俳優のようだとも(笑)。昭和55年の最後に訪れた際には、船の回りを大きなエイがぐるぐる泳ぎ、すごく奇麗だったそうです。

あと、夏目漱石の「坑夫」ともう1冊(失念)の世界観が、まるで当時の四坂島のようで、繰り返し何度も読んでいるそうです。

最終的に煙害は克服したものの、精錬の島とういのは、辛く厳しい場所というイメージを持っていました。この女性の話を聞いてイメージが変わりましたし、もっと当時の話を聞いてみたくなりましたね。

参考:別子銅山産業遺産の残存状況について ~四阪島~ 吉村 久美子 – PDF
Reference : The Remaining State of the Industrial Heritage of the Besshi Copper Mine ~ Shisaka Island Area, Miyakubo City, Ehime Prefecture ~
Kumiko Yoshimura – PDF

別子銅山は、元禄4(1691)年から昭和48(1973)年までの283年間稼行し,65万トンもの銅を産出した日本屈指の銅山である。銅は代表的な輸出品として,日本の経済や産業に大きな活力を与えた.そして1970年代,足尾,別子を筆頭に日本の代表的な鉱山は,その役割を終えることとなる.

では,当時の銅鉱業が,どのような技術をもち,どのように発達していったのか,またそれに携わる人々の生活はどうであったか.その記録は少なく,実際にその時代を生きた人々の,生の声を聞くことも限られつつあるのが現状である.現在,その当時の施設は,ほとんど取り壊されているが,残存している施設等は,別子銅山の盛衰を物語る貴重な実物資料といえる.散逸が進みがちな産業遺産の分野であるがゆえに,現時点での遺産の残存状況を記録しておく必要があると考え,調査を開始した.今回は,明治38(1905)年から昭和51(1976)年まで銅製錬が行われていた越智郡宮窪町四阪島を取り上げ,文献調査及び聞き取り調査をもとに,現地調査を行ったので,その結果をここに報告する.

The Besshi coppermine in Niihama City, Ehime prefecture distinguished as one of the most productive
coppermines in Japan, had produced about six hundred fifty thousand tons of copper from 1691 to 1973.
The copper as one of most important exports had made the great energy on the Japanese economy and industry. In
the 1970’s, the most productive coppermines in Japan were closed.
It is not clear how the coppermining technology developed, how the workers lived in those days. And there is little
record of the past. Gradually the oppotunity to ask the then workers directly about their experience of coppermining
has decreased in the present state of affairs. Although coppermining nolonger continues, the remnants of the
buildings and equipment can still be seen. This industrial heritage is invaluable for giving an account of the Besshi
coppermine in full flourish. In this report, the nature and condition of the coppermining remnants around the Shisaka
Island area where the smelting works was located, is described.

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7 Comments

  1. noriko

    四阪島 私の育った島。
    懐かしくて 涙。
    公害とともに歩み、公害を克服した人々
    山を愛し 緑を愛し、人類と自然のために
    自然と工業の両立を目指した人々。
    いまの最大の公害=放射能を無くすために戦う人はいますか。

  2. しのぶ

    私の大好きなふるさとの島。
    生まれて育った島…。
    島中の大人に育ててもらった大切な島。
    父も祖父も育った島…。
    誰もが平等だった小さな島。
    もう、心の中にしか見えなくなる島。

    あんなに不思議な幸せな島は無いだろう。私たちの自慢の小さな小さな島です。

    • yousakana

      ありがとうございます!素敵な思い出がつまった島だったのですね。以前、別子銅山記念館の展示で来ていたとても品のいい雰囲気のお祖母様が、島での思い出をとっても楽しそうに話してくださって。とても嬉しかったです。ぜひ、そうした四阪島の思い出を取材させていただけたらうれしいです。

  3. kazuma

    毎年、年末になると見たくなる四坂島思い出情報。
    今年は36歳の息子にこの写真を見せました。
    すると、筆者が大学の1年先輩で知ってると言いだしました。私は四坂島から離れて現在は福島県に住んでます。
    今治市に帰るとどうしても四坂島を遥か遠くに見たくなります。
    中学生の時は伝馬船を漕いで向かいの明神島に釣りに行ったり泳いだりしました。民家が一軒有りましたが、その大事な井戸の水を勝手に組んで頭から被ったこともありました。
    夏になると屋形船みたいに白いテント屋根を付けた漁師舟がタチウオ狙って暗躍してました。上から見るとそれは綺麗です。
    島では悪いことも起きました。レンガが崩れて家が落ちそうになったり、台風で定期便が流されそうになったり、山火事が起きてしまったり。思い出書いても表現には限界があるし、経験したことを書いても人それぞれ多数の違う思い出持ってるでしょうから、ここらで失礼します。
     

  4. 田中芳夫

    昭和32年から36年まで新居浜にいました。 よく新居浜港に行きました、そこに白水丸という船があり、父親があれで四阪島に水を運んでいるのだよと。 台風が来ると2-3日、水が運べないこともあったようです。 別子銅山での事故、選鋼所での事故などもあった記憶があります。 まだ池田首相の所得倍増計画以前の話です。 惣開小学校に通いましたが卒業前に東京に戻りましたが、 小学校の同窓会は今でも2年に一回あり、出席しています。 昔を思い出します。 

    • yousakana

      貴重な昔のお話、ありがとうございます。様々なひとたちの記憶が残っている場所なのだと改め気が付かされました。ありがとうございます。

  5. 猪川道晴

    小学校、中学校と走りまくりました。現在大阪ですが、出来ることなら今年で65歳になり仕事も終えたら四阪島で余生を送りたい。

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