東京・日本橋の高架高速道路が地下化!
23年前、大学一年生のとき、都市計画やランドスケープを学ぼうと石川幹子先生の研究室の門を叩きました。
最初の学期最終プレゼンテーションで、日本橋の上を覆う高速道路を地下化した時の画像イメージを、覚えたてのPhotoshopで作成し発表(今とやってること変わってないw)。その流れで、親友の稲葉くんとともに、博士課程の鹿内さんと「日本橋プロジェクト」と銘打ち、日本橋の研究をすることに。大学在学中、日本橋をはじめ、東京の都市河川の研究や、高速道路の地下化後の川沿い空間の提案などを何度もしておりました。でも、心のどこかで「1m地下化するのに何十億円もかかる地下化なんて実現するのだろうか」とも思っていました。

東京・日本橋、青空復活へ 首都高の橋桁撤去公開 | 共同通信

ついに!こんな日がこようとは。約3200億円、2040年度予定。工事が終わる頃には私は60歳か。
2002年、川の側から東京の街を眺めてみようと、船を借りて都市河川を巡った時の記録写真を掲載しておきます。

Elevated motorway in Tokyo’s Nihonbashi goes underground!
Twenty-three years ago, when I was a first-year university student, I knocked on the door of Professor Mikiko Ishikawa’s laboratory to study urban planning and landscape architecture.
In the final presentation of my first semester, I created and presented an image of an underground motorway over the Japanese bridge using Photoshop, which I had just learnt (what I was doing was not different from what I do now). In the same vein, together with my best friend Inaba-kun, I decided to conduct research on the Nihonbashi Bridge under the title ‘Nihonbashi Project’ with Dr Shikanai-san, a PhD student. During my time at university, I had done a number of studies on the Nihonbashi and other urban rivers in Tokyo, as well as proposals for riverside spaces after the motorway went underground. But somewhere in the back of my mind, I also wondered whether undergrounding would be feasible, as it would cost billions of yen to underground one metre.

At last!!! I never thought this day would come. About 320 billion yen, scheduled for 2040. I will be 60 years old by the time the construction is finished. In 2002, I rented a boat and toured the city rivers to see the city of Tokyo from the river side, and here are some photos recording my visit.

2002年撮影


日銀。常盤橋


日本橋

日本橋の設計は、明治建築の三大巨匠のひとり、妻木頼黄(つまきよりなか)さん。

明治建築の三大巨匠
・妻木頼黄(つまきよりなか):日本橋、横浜のレンガ倉庫
・辰野金吾(たつのきんご):東京駅、日本銀行、大阪市中央公会堂
・片山東熊(かたやまとうくま):迎賓館(旧東宮御所)、新宿御苑御休所、東京国立博物館表慶館


新常盤橋


きじばし


屋形船

日本橋の麒麟(きりん)像-東京都公文書館

改築以前の日本橋は、明治5(1872)年に架け替えられたものでした。しかし、木造であったことや建設後年数を経過していること、さらには大都市として発展していた東京の「顔」にそぐわなくなっていることなどから、その改築が懸案となっていました。そこで、工事を行った旧東京市では、耐久性などの問題から、最終的に石造りの橋とすることに決定しました。そして、橋の装飾については、建築家の妻木頼黄に装飾顧問として、そのデザインを委嘱しました。その結果、妻木は材料に青銅を用い、西洋的なデザインを主体としながらも、日本的なモチーフも取り入れた和洋折衷の様式を持ったデザインにしました。それは、後述のように、麒麟と獅子といった東洋的なモチーフを採用している点や、柱の模様に一里塚を表す松や榎木を取り入れている点にも表れています。

そして、装飾の製作については、東京美術学校に委嘱され(製作主任は同学校の助教授の津田信夫)、さらに装飾柱に置かれる獅子と麒麟の原型製作には、彫刻家の渡辺長男が、その鋳造には彫刻家で渡辺の義父の岡崎雪聲が担当しました。この麒麟については、まったくの想像上の生き物であり、参考となる作品に乏しかったことから、体の部分ごとに異なる作品を参考にして作製したとしています。また、デザイン上の点と日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られない羽を付けることを決めましたが、翼と背びれとを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用しました。その一方で、柱全体の装飾との調和が求められている点と、すでに台座の大きさが決められていて、その大きさが小さく、縦長の空間に麒麟像を収めなければいけないことから、麒麟像のバランスをとることにたいへん苦労したことを語っています。

一方で、橋の両端にある獅子像については、奈良県の手向山八幡宮にある狛犬などを参考にして製作されました。この時、妻木からヨーロッパの盾をもつライオン像も取り入れてほしいと言われ、ルネサンス期の彫刻家ドナテッロのライオン像等も参考にされましたが、盾についていろいろ検討した結果、完成した獅子像は、盾の代わりに東京市の紋章を持っています(なお、この紋章は東京都の紋章として現在も使用されています)。

中央区民文化財 日本橋の橋柱装飾品青銅製麒麟像鰭及び附属品 – 中央区

日本橋川に架かる石造2連アーチ橋の日本橋は、日本橋室町一丁目と日本橋一丁目を結ぶ道路橋です。慶長8年(1603)の創架とされる木造の日本橋が今日の石造橋となるまでには、記録に残るものだけでも20回近くの改架工事が行われています。現在の日本橋は、明治6年(1873)架橋の西洋式木造トラス橋から明治44年(1911)4月3日に改架した橋で、平成11年(1999)に重要文化財指定(北西橋詰の「東京市道路元標」〈元は橋面中央に位置し、都電架線の支持柱を兼ねていた〉は附指定)を受けました。橋長約49m・幅員約27m・アーチ径間約21mの規模を持つ日本橋は、明治初年の木造トラス橋から新時代の交通手段に対応した歩車道分離型の道路橋となりました。橋の構造は、日本橋川中央に築いた橋脚から南北両岸の橋台に向けて2連の石造(欠円)アーチを架け、橋体と翼壁表面には花崗岩(橋の部位によって産地〈稲田産・加波山産・北木島産・徳山産など〉の使い分けがある)の切石を積み、翼壁上には湾曲した袖壁を巡らせています。東西両側の高欄上には、青銅製の華麗な装飾照明(花形ランプ)灯が複数設置されており、橋の中央にある大装飾柱の柱座左右には背鰭を備えた麒麟像、橋台四隅にある装飾台の柱座には東京市章(昭和18年から東京都紋章として継承)を盾のように持つ獅子像が配置されているなど、芸術性の高い装飾が随所にみられるのも特徴です。日本橋の橋梁設計および工事監督には、東京市橋梁課長・樺島正義の指導の下で東京市技師・米元晋一が主任技師として当たりました。装飾設計は、橋本体の様式選定や石割決定にも関与した大蔵省臨時建築部長・妻木頼黄の考案に基づき、和漢洋折衷の青銅製装飾が採用されています。妻木が目指した装飾デザインは、「橋体との調和渾成」「帝都橋梁の重鎮としての美観と威厳」「全国里程の元標としての寓意」「日本趣味による典雅安定の趣致」といった諸要件を具備するものでした。なお、装飾用材に青銅を用いた日本橋の装飾品は、明治43年(1910)5月に東京市から委嘱を受けた東京美術学校(制作主任は同校助教授・津田信夫)が制作に携わりました。東京市の繁栄を祝福する麒麟像と東京市の守護・威厳を表す獅子像の塑造原型は渡邊長男が、松や榎の葉を配した装飾柱の原型は熊木三次郎がそれぞれ制作し、その後の鋳造作業に至っては短期間(約7カ月)で鋳造するために東京美術学校内の工場はもとより、鋳金家の岡崎雪声や香取秀真などの工場でも行われています。日本の伝統的な技法(真土式込型技法)で鋳造された麒麟や獅子などの大型銅像は、部分ごとに真土(鋳物土)で原型の鋳型を取り、元の形に組み合わせた鋳型に中型(中子)を入れて焼いて造られました。橋柱を彩るこうした装飾品は、関東大震災後の補修や終戦後の応急的な修理(戦時中の金属供出・空襲などによる欠失・損傷・変形箇所)を経て、平成8年から平成10年にかけて大修復工事が行われています。3年にわたる修復工事では、現況の詳細調査と修復設計を実施し、創建当時の造形性を取り戻すべく装飾柱の各所が復元・修復されました。このうち、新規鋳造のために取り外された西側方錐柱の柱座に蹲踞する阿形・吽形両麒麟像の右鰭(青銅製〈一部モルタル補修〉1点、モルタル製1点)と西側ランプ柱および東側方錐柱の各配電盤装飾蓋(青銅製2点)は区民文化財として保管されています。修復の歴史が刻まれたこれらの橋柱装飾品は、明治期の鋳造技術や造形芸術の一端を示す貴重な遺物(工芸品)といえるでしょう。中央区総括文化財調査指導員増山一成

2004.03 東京再生 TokyoInnerCityProject 研究/編集
2002.01 インナー・シティ・プロジェクト(慶応大学/明治大学/ハーバード大学) 研究/制作
2000.09 SFC OPEN RESEARCH FORUM 2000 出展
2000.08 8月展 出展


慶応義塾大学SFC石川幹子研究室で制作した本、「都市と再生と神田川」


インナー・シティ・プロジェクト(慶応大学/明治大学/ハーバード大学) プレゼンテーション


インナー・シティ・プロジェクトでのパネル展示

東京再生Tokyo Inner City Project―ハーバード・慶応義塾・明治大学プロジェクトチームによる合同提案
伊藤 滋 東京インナーシティープロジェクト実行委員会
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4 頑張れ、未来の都市デザイナー