徳島県徳島市の南部に位置する渋野町には、国の史跡に指定されている『渋野丸山古墳』という5世紀中頃に築造された前方後円墳があります。周辺には、天王の森古墳・新宮塚古墳・花折塚古墳・マンジョ塚古墳、徳島県指定史跡に指定されている古墳が点在してます。渋野丸山古墳は、墳丘全長が105mで、香川県さぬき市の『富田茶臼山古墳』についで四国第2位の規模の古墳。徳島県では、最大の前方後円墳であり、県内有力豪族の活躍を知るのに重要な古墳といえます。

The Shibuno Maruyama Tumulus, a national historic site, is located in Shibuno-cho, Tokushima City, Tokushima Prefecture. It is a forward and backward circular tomb built in the middle of the 5th century. The area is dotted with other burial mounds such as the Tenno no Mori burial mound, Shinguzuka burial mound, Hanaorizuka burial mound and Manjozuka burial mound, all of which are designated as historical sites by Tokushima Prefecture. The Shibunomaruyama tumulus is the second largest tumulus in Shikoku with a total length of 105m. It is the largest anterior and posterior round burial mound in Tokushima Prefecture, and is an important burial mound for understanding the activities of powerful families in the prefecture.

渋野丸山古墳
住所:徳島県徳島市渋野町三ツ岩 [Google Map]
規模:墳丘全長 105m
時期:5世紀中頃に築造

Shibuno Maruyama Tumulus
Address: Mitsuiwa, Shibuno-cho, Tokushima City, Tokushima Prefecture [Google Map]
Size: Total length of the mound 105m
Period: Built in the middle of the 5th century

2022年2月撮影


渋野丸山古墳(しぶのまるやまこふん)は、徳島平野南部を流れる多々良川(たたらがわ)左岸に位置し、低丘陵の先端部を切断して築造された前方後円墳です。徳島市教育委員会による発掘調査で、三段築成の墳丘、葺石(ふきいし)、盾形を意識した周濠(しゅうごう)、造出(つくりだし)が確認され、出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)から5世紀前半(古墳時代中期)に造られたと推定されます。


現在墳丘一段目は完全に埋没していますが、発掘調査によって墳丘全長は105m、周濠を含むと118mの県内最大の前方後円墳であり、四国でも富田茶臼山(とみたちゃうすやま)古墳(香川県さぬき市)に次ぐ、第二の規模を持つことがわかりました。造出(つくりだし)周辺からは、船形埴輪や家形埴輪のほか、小型丸底壷、高坏(たかつき)、笊(ざる)形土器などが出土していて、造出における祭祀(さいし)に使用されたものと考えられます。


周濠や造出、埴輪列など畿内の大型古墳と共通する特徴を持つことや、渋野丸山古墳を最後に徳島県内で前方後円墳が造られなくなることから、古墳時代の阿波と畿内の関係や、社会の変容を物語る重要な古墳です。(徳島市教育委員会 2009年2月12日指定)


円墳


前方




石積み


国指定史跡 渋野丸山古墳。


八幡神社


この狛犬(こまいぬ)は1800年(寛政12年)に献納されたものです。西側の灯籠は1797年(寛政9年)、東側のものは1756年(宝暦6年)に建立されたものです。


徳島市指定 渋野町民俗芸能 三番叟。
古墳で有名な徳島県徳島市渋野町。その学頭に鎮座する八幡神社は、祭神を応神天皇とし、鎌倉時代の創建という。秋の祭礼日に催される三番叟踊りの起源は天王の昔、蜂須賀家政が阿波入国のとき、当地は大豊作でした。これを祝い神に感謝する誠心を産土神(うぶすな)の前で表現した歓喜の踊りであり、これが現在に引き継がれ現在に至っています。古い伝統ある邦楽器を用い、素朴な歌詞で威勢ある姿体で舞い踊ります。(渋野町文化財保勝会)


渋野天王の森古墳


階段



馬頭観音。
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。また、千葉県では馬に跨った馬頭観音像が多く見られる。現代の日本においては競馬場の近くに祀られていて、レース中や厩舎で亡くなった馬などの供養に用いられている場合もある。また、赤字等で廃止された地方競馬の競馬場では、旧敷地の片隅にあった馬頭観音が撤去されずに残され、かつての競馬場の存在を現在に伝える数少ない痕跡となっていることもある。(Wikipediaより)


1933年(昭和8年)

渋野丸山古墳
住所:徳島県徳島市渋野町三ツ岩 [Google Map]
規模:墳丘全長 105m
時期:5世紀中頃に築造

Shibuno Maruyama Tumulus
Address: Mitsuiwa, Shibuno-cho, Tokushima City, Tokushima Prefecture [Google Map]
Size: Total length of the mound 105m
Period: Built in the middle of the 5th century

渋野丸山古墳 文化遺産オンライン

徳島県徳島市渋野町
指定年月日:2009年2月12日
管理団体名:徳島市
史跡名勝天然記念物

渋野丸山古墳は、徳島平野の南を流れる勝浦川水系の多々羅川左岸に位置し、南東に伸びる低丘陵尾根の先端を切断し、5世紀前半に築造された前方後円墳である。この古墳は、阿波地域最大の前方後円墳として古くから知られ、墳丘が一部削平されているものの、後円部や前方部の中央部分をはじめとする、墳丘の主たる部分が全長およそ80mにわたって残存し、全体の形状をうかがうことができる。これまで詳細な調査は行われてこなかったが、1999年(平成11年)に、古墳南側に隣接する市道の拡幅計画が持ち上がったため、1999年(平成11年)から2006年(平成18年)にかけて、徳島市教育委員会が範囲確認のための発掘調査を実施した。

 その結果、墳丘の全長は約105m、後円部直径約69m、前方部長約44.5mである。後円部、前方部ともに3段築成であることが判明した。南側くびれ部には張り出しが取り付く。墳丘周囲の周濠は、南側で盾形、北側で墳丘形状に沿った前方後円を呈する折衷形で、北側くびれ部付近で一部途切れる。周濠まで含めた総長は約118mとなる。墳丘斜面には葺石が施されており、墳丘平坦面では原位置を留める埴輪が検出された。

 出土遺物は円筒埴輪、盾形・家形・衣笠形等と推定される形象埴輪のほか、小型丸底壺等の土師器が出土している。これらの特徴から、古墳の年代は5世紀前半と推定される。

 阿波地域では、弥生時代終末期から古墳時代初頭以来、徳島平野の中央を流れる吉野川水系の鳴門・板野古墳群、気延山古墳群などで前方後円墳が築造されるが、古墳時代中期の前方後円墳は確認されていない。

渋野丸山古墳 – Wikipedia

渋野丸山古墳(しぶのまるやまこふん)は、徳島県徳島市渋野町三ツ岩(みついわ)・学頭(がくとう)にある古墳。形状は前方後円墳。渋野古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。 徳島県では最大、四国地方では第2位の規模の古墳で[注 1]、5世紀前半(古墳時代中期前半)の築造と推定される。

徳島県東部、徳島平野南部の多々羅川(勝浦川水系)左岸の丘陵尾根を切断して築造された大型前方後円墳である。勝浦川下流域では本古墳含む渋野古墳群などの古墳群が分布するが、本古墳はそれらのうち盟主的位置づけになる。本古墳は1923年(大正12年)の『勝浦郡志』に紹介されるように古くから前方後円墳として知られ、1999年度(平成11年度)から数次の発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘は3段築成(ただし1段目は埋没)。墳丘長は105メートルを測るが、これは徳島県では最大、四国地方では富田茶臼山古墳(香川県さぬき市、139メートル)に次ぐ第2位の規模になる。墳丘表面では、葺石、円筒埴輪列・朝顔形埴輪・形象埴輪(家形・盾形・蓋形・甲冑形・舟形埴輪)、土師器が検出されている。また墳丘南側には造出(四国では渋野丸山古墳のみか)を持ち、そこから多数の小型壺のほか、ざる型土器・埴輪片が出土している。墳丘周囲には左右非対称形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は118メートルにおよぶ。主体部の埋葬施設は後円部に推定されているが、発掘調査はされておらず詳らかでない。

この渋野丸山古墳は、出土遺物等より古墳時代中期前半の5世紀前半頃の築造と推定される。徳島県域では、古墳時代前期は主に鳴門・板野地域や気延山地域で古墳が築造されていたが、前期後半頃のマンジョ塚2号墳から勝浦川下流域にも古墳が築造されるようになり、中期前半になって畿内色の強い大規模古墳である本古墳が築造されて、本古墳を最後に前方後円墳の築造は終えるという様相を示す。そのため、古墳時代の阿波地域の変遷や畿内勢力との関係の点で注目される古墳になる。

古墳域は、1953年(昭和28年)に周辺の天王の森古墳・新宮塚古墳・花折塚古墳・マンジョ塚古墳と合わせて「渋野の古墳」として徳島県指定史跡に指定された。その後、2009年(平成21年)に「渋野丸山古墳」として国の史跡に指定されている。