100年前、1923年11月25日は、香川県出身の建築家・山本 忠司(やまもと ただし)さんの誕生日です!

100 years ago, on 25 November 1923, it was the birthday of Tadashi Yamamoto, an architect from Kagawa Prefecture!

香川県庁職員として地域に根ざした建築を追求した建築家・山本忠司さん(1923~98年)。「喫茶・城の眼」(1962年)、「香川県立武道館」(1964年)、「栗林公園讃岐民芸館」(1970年)、県の建築技師で初めて日本建築学会作品賞を受賞した「瀬戸内海歴史民俗資料館」(1973年)、「まいまい亭」(1978年)、瀬戸大橋記念公園「瀬戸大橋記念館」(1988年)など今も多くの名建築が残っています。

The exhibition of architect Mr. Tadashi Yamamoto is now open at The Kagawa Museum. Mr. Yamamoto worked as a civil servant employed by prefectural governments. “The Seto Inland Sea Folk History Museum (1973)” which was his masterpiece was awarded the Prize of AIJ (Architectural Institute of Japan). It is first in Japan for building engineer of prefecture.

“Kagawa martial arts stadium (1964)”, “Sanuki Folk Museum of Ritsurin Garden (1970)”, “Cafe Shiro-no-me (1962)” and “Maimai tei (1978)”. Many architectures which was designed by architect Tadashi Yamamoto remain today.


イサム・ノグチさんや流政之さんなど、1962年のオープン以来、香川に集うアーティスト達のサロンとして、交流の場となった喫茶「城の眼」。半世紀を超えた今も、当時の息吹を伝える空間として多くのファンを持ち、県外からの来訪者も多い。


特徴的な、店内奥の石壁は、ニューヨーク世界博日本館(設計:前川國男、外壁デザイン:流政之)の試作として施工されたもの。


音楽家・秋山邦晴さんの監修による庵治石でできた3~4tもあるスピーカー・ボックス。インテリアは石彫作家・空充秋(そらみつあき)さん。


曲線が美しい天窓。


山本さんの最大の代表作となった、瀬戸内海歴史民俗資料館 (1973年竣工)(日本建築学会作品賞受賞)。


イサム・ノグチさんと共に訪れたインド、アーメダバードのインド経営大学(ルイス・カーン設計)にインスピレーションを得て設計された。


特徴的な石積外壁は、イサム・ノグチ財団理事長の和泉正敏さんの施工。


五色台 こども館(2019年4月撮影)。取り壊されていまは存在しません。


元香川県知事・金子正則(かねこ まさのり)邸。1950年から24年間知事をつとめた「デザイン知事」。残念ながら取り壊しが決定しています。(2022年9月撮影)


栗林公園 讃岐民芸館・瓦館(1970年)


香川県庁の土木部営繕課技師として、金子正則香川県知事の下、世界的建築家・丹下健三さんの香川県庁舎の計画にも携わりました。


「旧香川県立図書館(現香川国際交流会館/アイパル香川)」芦原義信さん設計


「香川県文化会館」大江宏さん設計


瀬戸大橋記念公園にある「瀬戸大橋記念館」。1988年、瀬戸大橋架橋記念博覧会の後にパビリオンを活用して開館。地上4階建て、建築面積2,778㎡。屋上展望台はライトアップされた瀬戸大橋を一望できる夜景の名所としても知られています。

イサム・ノグチさんや流政之さんや空充秋(そらみつあき)さんなど、世界的に活躍する彫刻家と手がけた建築も多く、また大江宏さんの「香川県文化会館」や「香川県立丸亀武道館」、芦原義信さんの「旧香川県立図書館(現香川国際交流会館/アイパル香川)」、大髙正人さんの「坂出人工土地」、浅田孝さんの「旧五色台山の家(五色台少年自然センター)」といった著名な彫刻家や建築家との交流を通じて香川県に多くの公共建築が実現しています。

香川県立ミュージアム

20世紀の香川を代表する建築家・山本忠司(1923-98年)は、香川県庁建築部門の職員として、香川県庁舎等の建設を通して、日本を代表する建築家の丹下健三、大江宏、大高正人、アーティストの猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、流政之、インテリアデザイナーのジョージ・ナカシマらとの協働、交流の中で研鑽し、建築家としての才能を発揮していきます。山本の代表作でもある瀬戸内海歴史民俗資料館では、地方自治体職員の設計した建築としては稀有の日本建築学会作品賞を受賞します。
 山本は、早い段階から瀬戸内固有の伝統や風土に関心を寄せつつ、戦後モダニズム建築の新たな潮流を吸収することで、独特の建築のあり方を問い続けました。山本の建築は、「風土」「地域」をキーワードに語られることが多く、建築を通して場所や環境をデザインし、地域固有の伝統の形象を解釈して新たに再生させる、といった営みを重ねてきたとも言えます。
 今回の展示では、香川県庁在職時代を中心に、山本の残した建築11作品を中心に、写真家・市川靖史氏の建築写真、建築模型や設計原図を中心に、山本の設計した当時のインテリア(机・椅子)も実物で紹介します。本展を通して山本の21世紀にも通じる建築への想いを読み取ってください。
 

建築家・山本忠司展―風土に根ざし、地域を育む建築を求めて

山本忠司(1923~98年)は、香川県大川郡志度町(現・さぬき市志度)に生まれ、1943年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科に入学、しかし、同年12月に徴兵されて香川県善通寺町の陸軍第11師団に入営、高松で敗戦を迎える。同年10月に改組された京都工業専門学校建築科へ復学し、1948年の卒業後は香川県に入庁、土木部営繕課技師として香川の戦後復興のために働き始める。一方で、山本は、1952年に北欧フィンランドで開催されたオリンピック大会に三段跳びの日本代表選手として出場する。日本が敗戦から独立を果たし、国際社会へ復帰する記念すべき歴史の只中にもいたのである。この時、山本は、ギリシアやイタリアにも立ち寄り、パルテノン神殿などにも触れている。そして、帰国直後に手がけたのが屋島陸上競技場(1953年)であり、北欧モダニズムの影響が読み取れる。また奇遇にも、同年から、金子正則知事(1907~96年)の指揮の下、香川の戦後復興の象徴となる丹下健三(1913~2005年)の県庁舎計画にも携わり始める。山本は、この経験を通して、最前線の丹下の仕事に学びつつ、地元香川で培われてきた木工事や石材加工の職人技の高さや素材の豊富さ、手仕事として実感できる伝統の厚みに目覚めていく。その成果は、香川県立武道館(1964年)や栗林公園讃岐民芸館(1970年)などに結実する。また、県庁舎の石工事を担当した地元の岡田石材工業の岡田賢(1924~2011年)や彫刻家の流政之(1923年~)ら気心の知れた仲間たちと、自らの創造の原点となる喫茶・城の眼(1962年)を完成させる。
 そして、日本建築学会四国支部の民家研究グループの一員として携わった民家調査も、その視点を確かなものにしていった。調査の一部は、1970年に、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)の邸宅、通称“イサム家”となる丸亀の庶民的な武家屋敷を移築する設計の仕事としても実を結ぶ。続いて取り組んだのが瀬戸内海歴史民俗資料館(1973年)であり、これによって県の建築技師としては初となる日本建築学会作品賞を受賞する。
 このように山本は建築課を率いて地元香川に根づく建築の姿を模索しながらも、大江宏、芦原義信、大髙正人、浅田孝ら著名な建築家に仕事を依頼して、香川県の公共建築の水準の向上にも努めた。また、浦辺鎮太郎や松村正恒、神代雄一郎らとの親交を深め、共同で瀬戸内海建築憲章(1979年)を発表する。山本は2010年に始まる瀬戸内国際芸術祭に結実する思想的な広がりをこの時点で提示していたのである。
 没後初となるこの建築展では、山本忠司の求めた、風土に根ざし、地域を育む建築とその建築思想の一端を、県庁在籍時の仕事を通じて紹介し、地域主義的建築の可能性と現代への示唆を読み取ろうとするものである。

山本忠司 – Wikipedia

山本 忠司(やまもと ただし、1923年11月25日 – 1998年7月28日)は、日本の運動選手そして建築家。1952年の夏季オリンピックで男子三段跳びに出場。公務員(香川県庁職員)として香川県庁舎の建設に携わり、後に建築家として香川県の現代建築文化の基礎を築いた。

山本は香川県建築課を率いて地元香川に根づく建築の姿を模索。日本を代表する建築家の丹下健三、芸術家では猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、流政之、インテリアデザイナーのジョージ・ナカシマらと協働したほか、大江宏、芦原義信、大高正人、浅田孝ら著名な建築家とも交流し、香川県の公共建築の水準の向上にも努めたことが知られる。一方で自己研鑽にも努め、建築家としての才能を発揮していった。

また、浦辺鎮太郎や松村正恒、神代雄一郎らとの親交を深め、1979年には共同で瀬戸内海建築憲章を発表した。

山本は早い段階から瀬戸内地方固有の伝統や風土に関心を寄せつつ、戦後モダニズム建築の新たな潮流を吸収することで、独特の建築のあり方を問い続けていた。山本の建築は、風土や地域をキーワードに語られることが多く、建築を通して場所や環境をデザインし、地域固有の伝統の形象を解釈して新たに再生させる、といった営みを重ねてきたとされる。

人物と経歴、作品、賞歴

香川県大川郡志度町(現・さぬき市志度)生まれ。太平洋戦争下の1943年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科に進学するが、同年12月に徴兵されて香川県善通寺町にあった陸軍第11師団に入営。しかしそのまま高松で敗戦を迎える。1945年10月に改組された京都工業専門学校建築科へ復学。1948年に卒業後、香川県に入庁。土木部営繕課技師として配属。

1952年にフィンランドで開催され、日本が戦後初のオリンピック参加となったヘルシンキオリンピック大会に三段跳びの日本代表選手として出場するが、この時山本はオリンピック後にギリシアやイタリアにも立ち寄り、パルテノン神殿などに触れていった。

そして、帰国直後に手がけたのが1953年竣工の屋島陸上競技場(現存せず)である。北欧モダニズムの影響が読み取れるという。

また同年から知事金子正則の指揮の下で香川の戦後復興の象徴となる丹下健三の香川県庁舎計画にも携わり始める。 山本はこの県庁舎の経験を通して、最前線の丹下の仕事に学びつつ、地元香川で培われてきた木工事や石材加工の職人技の高さや素材の豊富さや手仕事として実感できる伝統技術の厚みに目覚めていく。

1981年、香川県職業訓練大学校初代校長。1985年、山本忠司建築綜合研究室を開く。 また、1962年には県庁舎の石工事を担当した地元岡田石材工業の岡田賢や彫刻家の流政之ら気心の知れた仲間たちと自らの創造の原点となる喫茶「城の眼」を完成させる。店内奥の石壁は、ニューヨーク世界博日本館(設計:前川國男、外壁デザインが流政之)の試作として施工されたものだという。

1966年度には坂出市における人工土地方式による再開発計画として坂出人工土地に関わり、日本都市計画学会石川賞計画設計部門を受賞した。

石工や木工の伝統技術は1964年から手掛ける香川県立武道館(1966年竣工)や香川県農業試験場農業展示館(1969年、現存せず)、栗林公園讃岐民芸館・瓦館(1970年)などに結実する。

そして1969年から、日本建築学会四国支部の民家研究グループの民家調査に一員として携わった。調査の一部は、1970年に、彫刻家のイサム・ノグチの邸宅、通称“イサム家”となる丸亀の武家屋敷を移築する設計の仕事としても実を結ぶ。イサム・ノグチのアトリエ作りに関わり、イサム・ノグチ庭園美術館設立に尽力した。

続いて取り組んだのが1973年竣工の瀬戸内海歴史民俗資料館であり、これによって自治体所属の建築技師としては初となる日本建築学会賞作品賞を受賞する。これはイサム・ノグチと共に訪れたインドのアーメダバードでルイス・I・カーンが設計したインド経営大学にインスピレーションを得て設計された。特徴的な石積外壁は、イサム・ノグチ財団理事長の和泉正敏が担当。瀬戸内海歴史民俗資料館は後に第一回公共建築賞優秀賞も受賞。平成10年(1998年)には「公共建築百選」選出、ほかDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築選出。

このほか、以下の作品・業績がある。

栗本邸
イズミ家(1973年)
観音寺市立豊浜小学校・幼稚園(1975年)
県営住宇多津団地 U-1~25 号(1975年)U-11~26 号棟(1976年)
香川県立高松西高等学校(1977~82年)
まいまい亭(改装設計、1978年)
空海記念碑(1982年)
瀬戸大橋記念館(1988年)
さぬき市野外音楽広場テアトロン(1991年)
五色台こども館
高松大学経営学部棟
晩年は直島「家」プロジェクト(ベネッセアートサイト直島)も監修した。山本は2010年に始まる瀬戸内国際芸術祭に結実する思想的な広がりをこの時点で提示していたのである。

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