造山古墳
住所:岡山県岡山市北区新庄下 [Google Map]
指定:国の史跡(造山古墳 第一・二・三・四・五・六古墳)
長さ:約350m
高さ:約25〜29m

Tsukuriyama Ancient Tomb
Address: Shinjoshita, Kita-ku, Okayama City, Okayama Prefecture
Designation: National historic site
長さ:約350m
高さ:約25〜29m

2023/04/30撮影


古墳の上からの眺め


神社



古墳を周遊するクイズラリー


石の蓋


石棺蓋


解明がすすむ造山古墳の整備事業


桐の木


ブドウ農園のガラスハウス


陪塚


整備が進んだ千足古墳。


歩いて登ることができます。外国人観光客もこられていました。


史跡 千足装飾古墳。


帆立貝形古墳。

造山古墳の前方部前面に位置する、墳頂約81m、後円部径約63m、同高さ7.4m以上、前方部長約25mからなる前方後円墳です。通常の前方後円墳に比べ前方部が短いため帆立貝形(ほたてがいがた)古墳とも呼ばれます。造山古墳群を構成する6基の陪塚の一つで後円部には横穴式石室が2つあります。そのうちの第1石室では石室内の石障(せきしょう・石のついたて)に、直線と円弧からなる特殊な文様「直弧文(ちょっこもん)」が彫刻されていることで有名です。直弧文が描かれた石障は天草(熊本)から、石室の壁材は香川から運ばれ、石室の形態は北部九州のものと分かっています。このことからも千足古墳に埋葬された人も有力者であったことが推測されます。千足古墳は埴輪を並べた墳丘へ登ることができ、石室内部を見学できます。

第一石室の特徴


盗掘跡の穴から内部を覗くことができます。


地表下80cmから香川県産安山岩の板石、5枚発見。


石のついたて「石障(せきしょう)」の幾何学模様『直弧文(ちょっこもん)』。直線と帯状の弧線を複雑に組み合わせた文様。ここにあるのはレプリカです。国史跡で装飾を取り出すのは奈良県明日香村の高松塚古墳、キトラ古墳の壁画に続き国内3例目。


千足古墳周辺の遺跡について


第2石室の発見について


ビジターセンター


古墳まつり


吉備の大王。西平考史 作。2009年4月建立

造山古墳 (岡山市) – Wikipedia

造山古墳(つくりやまこふん)は、岡山県岡山市北区新庄下にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。岡山県では最大、全国では第4位の規模の巨大古墳で、5世紀前半(古墳時代中期)の築造とされる。墳丘に立ち入りできる古墳としては全国最大の規模になる。

岡山市西部、足守川右岸において丘陵を切断して築造された巨大前方後円墳である。墳丘は3段築成で、前方部の頂は壇状の高まりをなす。墳丘長は約350メートルを測り、大仙陵古墳(大阪府堺市、約486メートル)、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、約420メートル)、上石津ミサンザイ古墳(大阪府堺市、約360メートル)に次ぐ全国第4位の規模を誇る。周囲には榊山古墳(造山第1号墳)や千足装飾古墳(造山第5号墳)など6基の陪塚がある。現在に至るまで本格的な学術調査は行われておらず、内部は未発掘である。特徴として、墳丘の長さに対して後円部の割合が大きいことが挙げられる。大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解がある。天皇陵に比定されている上位3古墳をはじめ近畿地方の巨大古墳が宮内庁により国民はもちろん学者・専門家も内部への立ち入りが禁止されているのに対し、ここは立ち入り出来る古墳では国内最大のものであり、全国的に見ても貴重である。なお、総社市にも同音の作山古墳(つくりやまこふん)があり、地元では造山古墳は「ぞうざん」、作山古墳は「さくざん」と区別して呼んでいる。

前方部
前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、神社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。この前方部の頂に祭祀に使用された台形壇があったと想定され、後円部への埋葬が終わってから作られたものであると考えられる。その大きさは、台形の短辺(下底)が約70メートル、長辺(上底)は約40メートル、両辺の間(高さ)約50メートルという大規模なものである。後円部へ向かうと広場と呼ぶに相応しい平坦部がある。墳丘上には3列に巡らされている円筒埴輪列が存在しているが、現在では地表に表れた埴輪片はほとんど拾いつくされ、見つけることが困難になっている。

後円部
後円部には隆起斜道(後円部に登る道)や掘割墓道(墓壙に至る道)が設けられていたと推定されるが、中世末には城砦となっていたため、相当の部分が作り直されていると推測される。後円部の頂は平坦で斜面の傾斜が強く、三段三斜面の築成であり、上斜面の傾斜が特に急になっている。それは禁忌(きんき)あるいは畏忌(いき)の考え方と結びついていたと考えられている。なお、後円部から直弧文楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)、家などの形象埴輪と円筒埴輪が多数採集されており、墳丘には葺石が葺かれていたとみられている。平坦部は、安土桃山時代に羽柴秀吉の毛利攻めの際、毛利方が陣地を設けるために頂上を平らにしたことによるものと考えられている。このとき、後円部の周囲に土塁を築き、さらに郭を2カ所、竪堀を3カ所設けている。

史跡 造山古墳 – 岡山市

岡山市内にある史跡の内で、全国トップクラスの歴史的内容を物語るものとして、造山古墳を挙げることができます。
 造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている巨大な前方後円墳であり、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模を占めています。

 前方後円墳は、「倭国(わこく)」と呼ばれていた古墳時代の日本列島において、大和(現在の奈良県)を中核にした政治体制の下で、社会的ステイタスに基づいて築造された首長の墓と評価されています。

 造山古墳は、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作っているばかりでなく、約9.6haの広大な墓域の中に築造されていることが、地割から復元できます。全国の多くの前方後円墳に見られるような、水を湛(たた)える周濠(ごう)は無かったと判断されますが、吉備地方でのそれまでのものとは規模と形態を異にしています。全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。

 造山古墳に葬られている人物は、通説では大和(中央)政権にきっ抗した吉備(地方)政権の大首長とされています。しかし、最大規模観の達成、少なくとも築造時に限れば全国最大規模と判断されることと、倭国の大王陵に想定されている同時期の巨大な前方後円墳との墳丘形態の類似性から、倭国の政治体制の頂点である大王とみてよいように思われます。

 造山古墳を倭国大王陵とする観点は、吉備っ子の地元びいきなのでしょうか。

造山古墳|観光スポット | 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ!

全国第4位の規模をも持つ、5世紀前半の前方後円墳です。全長約350m、後円部径約224m、高さ約27~32.5mで三段築成。後円部墳頂には形象埴輪、墳丘斜面の各段には大量の葺石と円筒埴輪列が認められます。
墳丘上まで上がることができる全国最大の前方後円墳。6基の陪塚(ばいづか)があり、馬形帯鈎が出土した榊山古墳、直弧文が彫られた石障をもつ千足古墳が著名です。(第1・2・3・4・5・6古墳)

【特集】“墳活”の聖地「岡山」の古墳に大コーフン! 中学生の古墳博士らが魅力を紹介 | KSBニュース | KSB瀬戸内海放送

日本のコンビニエンスストアは約5万7000店。その3倍近くも存在するのが古墳です。そして岡山県は、全国でトップ5に入るほどの古墳の宝庫!岡山は、古墳ファンも熱視線を送る「墳活」の聖地なんです。「古墳にコーフン協会」の会長と中学生の古墳博士が、その魅力を紹介してくれます。

全長約350m、全国4位の規模を誇る巨大な前方後円墳。埋葬されたのは、ヤマト王権に匹敵するほどの古代吉備の王だと言われていますが、その全貌は謎に包まれています。そして、造山古墳は日本一大きい「登れる古墳」古墳。ピクニック、通称「墳ピク」も楽しめます。たくさんある見どころの中から今回は3つ選んで紹介してもらいました。(中学1年生/板東郁仁さん)「ここが、岡山市の発掘調査のトレンチの跡になります。ここから香川県で採れる安山岩の板石が大小5つ見つかっていて、これが埋葬施設に関連するものだとしたら大発見です」2022年初めて行われた後円部の発掘調査。現場から出土した板状の石は、埋葬施設が残る可能性を示す重要なものなんです。今後「古代吉備の王」の人物像に迫る重要な手がかりになるかも知れません。続いては、古墳の前方部にある神社へ。

(中学1年生/板東郁仁さん)「これが、石棺になります。ただこれが、どこの古墳から出土したのか分かっていません。けど、この石棺の石材は熊本県で採れる阿蘇溶結凝灰岩というもので、海を越えて運ばれたものと考えられています。それだけこの地域は(九州地方と)結びつきが強かったことを示しています」ちなみに神社の裏手には、石棺のふたもあり、千数百年前に塗られた赤い顔料や特殊な模様を今も確認することができます。最後に向かったのは……。(中学1年生/板東郁仁さん)「ここが造山古墳がよく見える場所になります。こっち側が前方部あちら側が後円部になります。今草がない部分、あそこがこれから復元される部分になります」(中学1年生/板東郁仁さん)「造山古墳を見れば古代吉備の勢力が分かって、吉備の謎の解明につながるということで、古墳はただのお墓ではなくて、古代人が残してくれたすばらしい遺産なんだということを、これからも発信できるように頑張りたいです」