鷲羽山(わしゅうざん)は、岡山県倉敷市下津井田ノ浦にある山で、1934年3月16日、日本初の国立公園として指定された「瀬戸内海国立公園」の代表的な景勝地です。山の名前は、山の形が鷲(ワシ)が翼を広げた姿に見えることに由来しているといわれています。

春に瀬戸大橋を渡ると、本州・岡山県側の付け根に、赤紫色のツツジが岩肌の間に目立つのですが、そのあたりに展望台が点在しており歩いていくことができます。山道は整備された尾根線沿いの遊歩道なのでとても歩きやすいので、散策にオススメです。鷲羽山から見た瀬戸内海に沈む夕陽は日本の夕陽百選に選ばれています。

Mt. Washu (Washuzan) is located in Kurashiki city, Okayama pref., Japan. It is also part of the Setonaikai National Park, Japan’s first national park. The name of the 133m Mount Washu came from the shape of the mountain which looks like an eagle’s wings. Viewing the sunset from Mount Washu has been chosen as one of the “100 Best Sunsets in Japan” and a special place of scenic beauty by the Japanese government.

鷲羽山(わしゅうざん)
住所:岡山県倉敷市下津井田之浦 [Google Maps]

Mt. Washuzan
Address : Tanoura, Shimotsui, Kurashiki city, Okayama pref., Japan [Google Maps]

2022年5月3日撮影

展望台からの眺め。松島(まつしま / 岡山県倉敷市下津井)。2018年4月時点の人口は1家族2名。中世に豪族・松島庄太夫が開発し、その宅地跡の遺跡が現存します。水軍の根拠地の一つで、島全体が要塞化。島内には、平安時代中期の貴族・海賊、藤原純友(ふじわらのすみとも)に由来する純友神社が存在します。


双眼鏡

2018年4月7日撮影

駐車場から展望台に向かうとその先が岩場になっており、遊歩道を進むことができます。花崗岩質の岩場でも松は育つことができ、日本の美しい海岸の風景を表現した「白砂青松(はくしゃせいしょう)」という言葉にふさわしい風景に出会うことができます。


山の上に人がいるのがみえます。遊歩道を進んでいってみましょう。


ゴツゴツした岩場ですが、綺麗に整備されていて歩きやすいです。


瀬戸大橋の袂(たもと)、下津井(しもつい)の町並みがみえます。
約1,300〜1,500年前と推定される鷲羽山古墳群。円墳に属した横穴式古墳が残されています。


山に赤紫色のツツジが綺麗です。


小葉の三葉躑躅(コバノミツバツツジ)。


瀬戸大橋の本州到達点の上部から眺めることができます。


展望台の東屋もスポットごとに綺麗に整備されています。


瀬戸内海の海底からステゴドン象、ナウマン象と呼ばれる時代の異なる二種類の象の化石が発見されています。これは、昔日本列島が大陸と地続きであったこと、瀬戸内海が幾たびか陸地になっていることを物語るものです。


鷲羽山の花崗岩。この付近の花崗岩は、ボロボロになっていますが、これは自然による風化ばかりではなく、大昔、鷲羽山が海底に沈んでいた時代に、海水中の塩分などの影響により、鉄分の多い泥岩や雲母が変異したためです。


いい眺め

鷲羽山(わしゅうざん)
住所:岡山県倉敷市下津井田之浦 [Google Maps]

Mt. Washuzan
Address : Tanoura, Shimotsui, Kurashiki city, Okayama pref., Japan [Google Maps]

瀬戸内海国立公園の絶景スポット「鷲羽山」徹底攻略ガイド|旬のおすすめ-特集- | 岡山観光WEB

鷲羽山が生んだ瀬戸内海国立公園

1934年(昭和9年)3月、瀬戸内海は、雲仙、霧島(長崎県、熊本県、鹿児島県)とともに日本で最初に国立公園に指定されました。
そして、最初の指定に尽力したのが、脇水鐵五郎(わきみず てつごろう)と田村剛(たむら つよし)という2人の学者です。
東京帝国大学教授で、地質学、土壌学を専門とする脇水鐵五郎は、教授退任後、史跡名勝、天然記念物の調査に従事。その中で、鷲羽山が瀬戸内海の優れた展望地であることを「発見」しました。彼の言葉です。「(瀬戸内海の優れた展望地とは、)第一に視野が広いこと、第二に近景から遠景までが望め、第三に小さい島嶼が数多く眺められ、第四に適度な標高でなければならない。鷲羽山の標高133mは天与の高さとなっている。これより高ければ島々が遠くなり、低ければ島々が重なり合う。」
そして、地元倉敷市出身の林学博士、田村剛は、大正10年に始まった国立公園候補地調査の中心となって活躍。後に国立公園の父と呼ばれました。彼の文章が残されています。「鷲羽山に登った、そして私は意外な絶勝を発見して暫くはうっとりとして無言でいた。恥ずかしいことに、私はこうした風景が郷里にあろうとは夢にも知らなかったのである。少しく先に脇水鐵五郎博士もこれに登って「超八景」の賛辞を与えたそうである。勿論私もそれには同感である。私は此風景をどんなに大げさに紹介しても決して批難されるような懸念はない。」
田村もまた鷲羽山を「発見」し、国立公園の核心を得たと自信を持ちました。鷲羽山の「発見」こそが、瀬戸内海国立公園の誕生につながる大きな出来事となったのです。
現在、鷲羽山からは、多島美に加え、「日本の20世紀遺産20選」に選ばれた雄大な瀬戸大橋を眼下に望むことができます。この風景もすでに30年の時を刻みました。先人に思いをはせつつ、鷲羽山に是非おいでください。



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「国立公園候補地の調査が、内務省衛生局保健課によって、内務省嘱託の林学博士田村剛を中心に1921(大正10)年ごろから行なわれる。この調査の初期 の1922(大正11)年にはすでに国立公園の候補地16ケ所が選ばれていた。このとき、瀬戸内海は小豆島・屋島として候補にあげられている。

そして1932(昭和7)年12ケ所の国立公園が選定された。この内定は広く伝わり、世間においては事実上の指定とうけとめられた。このとき『小豆島・屋島』 は『瀬戸内海』へと変貌し、国立公園の区域は、当初の小豆島、屋島から備讃瀬戸を中心とする地域に拡張された。田村剛は著書『国立公園講話』のなかで次の とおりしるしている。“瀬戸内海についても、小豆島、屋島だけではそれほど有利でないとする向きもあったが、新たに登場した鷲羽山と鞆仙酔島、そして多島海としての島々を加えて、これは立派なものとなり、結局、12箇所が正式候補地と決定した。”当時は識者のなかにも、瀬戸内海国立公園を小豆島と 屋島に局限する不合理を批判する人があった。1932(昭和7)年、河東碧梧桐は、紀行文『瀬戸内海ルンペンの記』で、まだ正式指定のない瀬戸内海国立公園について次のとおりふれている。“今に指定されんとする国立公園予定地が、瀬戸内海を胴切りして、小豆島、屋島を中心に局限しようとする不合理を、せめ て厳島まで延長せよと主張する広島県民の意向は所以あるかな、竹原、忠海の前に一衣帯水蝟集し蟠居する瀬戸内海中の多島の中心、この景観を除いて、何の瀬 戸内海国立公園ぞやと云ひたくもなる。”」

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