香川県さぬき市上空。鴨部川(かべがわ)が瀬戸内海に流れ込む様子がよくわかります。上流には、四国遍路の第88番札所、結願所(けちがんしょ)の大窪寺(おおくぼじ/真言宗大覚寺派)があります。見えている島は、無人島の高島。

山から海までをひとつの流域として見る ― 川から考える讃岐の風土

香川県さぬき市の上空から地上を眺めると、南の山から北の海へ向かって、一本の川が伸びているのが見える。 鴨部川(かべがわ)だ。 讃岐山地を源流とする鴨部川は、平野を北東へ流れ、鴨庄湾を経て瀬戸内海へ注ぐ。さぬき市の大部分は、この鴨部川と津田川の二つの河川流域に含まれている。つまり、この風景は「山」「川」「平野」「海」が別々に存在しているのではなく、水によってひと続きになった一つの流域なのである。

流域という視点に立つと、讃岐の風景が少し違って見えてくる。 山に降った雨は、森を通り、沢となり、川となって平野へ下り、地下水や伏流水となり、最後には海へ戻っていく。川が運んだ土砂は平野をつくり、海との境界には干潟や砂浜が生まれる。そして、その土地の水や土、気候が、農業や産業、食文化を形づくってきた。 香川県の河川は、山間部では急勾配で流れ、平野部に出ると扇状地をつくりながら瀬戸内海へ注ぐという特徴を持つ。讃岐平野そのものも、こうした河川が運んだ土砂によって形成されてきた。 「大河のない讃岐」は、なぜ生まれたのか 現在の讃岐には、吉野川や四万十川のような大河川がない。 しかし、これは昔からそうだったわけではない。 地質学的な研究から、かつて現在の徳島県を流れていた吉野川が、讃岐平野へ向かって流れていた時代があったことがわかっている。讃岐山脈の北側に分布する地層には、四国山地側に由来する三波川変成岩の礫が含まれており、古い吉野川が現在とは異なる流路をとっていたことを示している。

産業技術総合研究所は、250万~100万年前頃には吉野川が香川県側へ流れていたものの、その後の讃岐山脈の隆起によって流路を東へ変えたと推定している。 その背景の一つとして注目されているのが、約300万年前以降のフィリピン海プレートの沈み込み方向の変化と、それに伴う中央構造線の活動である。中央構造線の右横ずれ運動と北側の地盤の隆起によって讃岐山脈が形成され、古吉野川の流れも次第に変わっていったと考えられている。 つまり、現在の「大河のない讃岐平野」は、単なる地形ではない。 大地の動きによって、川の流れそのものが変えられた結果として生まれた風景なのである。

そして、川が短くなった讃岐では、水は貴重なものになった。 雨が少なく、川は短く、急勾配。 だから讃岐では、古くからため池がつくられ、水を貯め、地下水を利用し、限られた水を大切に使う文化が育った。讃岐平野の扇状地には地下水や伏流水も存在し、それが人々の暮らしを支えてきた。

「水が少ない土地」が、豊かな食文化を生んだ

ここが讃岐の面白いところだ。 水が少ないことは、一見すると弱点に見える。 しかし、その環境が別の産業を育てた。 温暖で雨の少ない瀬戸内式気候は、米だけでなく小麦の栽培にも適していた。讃岐では、少雨によって稲作が不安定になりやすい一方、小麦などの麦作が発達したとされている。現在の讃岐うどん文化を自然環境との関係から分析した真部正敏の論考「讃岐の自然と人間が育んだうどん文化」も、讃岐の気候・風土と小麦、塩、醤油、いりこの組み合わせに注目している。 一方、海では、遠浅で干満差の大きい瀬戸内海を利用して塩づくりが盛んになった。香川県では古代から製塩が行われ、江戸時代以降には塩田が発達した。昭和11年には香川県の塩生産量が全国の約30%を占めたという記録もある。

そして江戸時代、讃岐では「塩・綿・砂糖」が「讃岐三白」と呼ばれるほど重要な産物となった。温暖で雨の少ない気候は綿花栽培にも適し、高松藩・丸亀藩で盛んに栽培された。東讃ではサトウキビ栽培も発達し、やがて讃岐を代表する和三盆へとつながっていく。 さらに海ではカタクチイワシが獲れ、いりこになった。 小麦がある。 塩がある。 醤油がある。 いりこがある。 そして、それらを結びつける水がある。 こうして見ると、讃岐うどんは、単なる「麺料理」ではない。

山から流れた水と土、少雨の気候、瀬戸内海の塩、海の魚、農地の小麦、醤油という発酵文化。 それらが一つの流域と、その周辺の海域で結びついて生まれた食文化なのである。研究でも、讃岐うどん店の分布と主要河川流域・扇状地との関係、さらに小麦・塩・醤油・いりこ・地下水という複数の条件の重なりが指摘されている。 鴨部川の先に、讃岐が見えてくる だから、鴨部川が海へ流れ込むこの風景は、単なる「美しい空撮」ではない。 山があり、そこに雨が降る。 森が水を受け止める。 水は川となり、平野をつくる。 人はその水をため池や地下水として利用し、小麦を育てる。 海では塩をつくり、魚を獲る。 塩と小麦は醤油にもつながり、いりこは出汁になる。 そして一杯のうどんになる。

そう考えると、讃岐うどんは、一杯の中に「山・川・平野・海」が入っているとも言える。 流域思考とは、川だけを見ることではない。 源流の森から、農地、ため池、地下水、都市、河口、干潟、そして海までを、一つのつながったシステムとして考えることだ。 目の前の川だけをきれいにするのではなく、その上流にある森をどうするのか。 水を使う農業をどう維持するのか。 ため池を誰が管理するのか。 川から海へ流れる土砂や栄養をどう考えるのか。 そして、その水と土地が生み出してきた食や暮らしを、どう未来につなぐのか。 鴨部川の流れを上流へたどっていくと、そこには讃岐の大地の歴史があり、さらにその先には、300万年前の地殻変動がある。 山と川と海を一つの流域として見ること。 それは、自然を守るためだけの考え方ではない。 そこに暮らす人々の歴史や産業、食文化までを含めて、地域そのものを読み解くための視点なのである。

特産種苗 特集:甘味資源作物(2011年11月)財団法人日本特産農作物種苗協会 – PDF

香川、徳島での和三盆糖産地の維持継続を目指して
香川県東讃農業改良普及センター 松村 晴美

歴史
四国東部の香川県と徳島県の間にある讃岐山脈をはさんで、北側の香川県東かがわ市、南の徳島県上板町では、江戸時代以来、特産物である和三盆の原料としてサトウキビが栽培されてきた。その歴史は、香川では、旧白鳥町の医師向山周慶が40数年かけて鹿児島県奄美大島出身の関良助とともに砂糖の製法を確立した。(寛政2年1790年)。その後、藩の奨励を受け、江戸時代後期から明治初期にかけて、販路を大阪として大いに繁栄した。しかしながら、明治に入ってからは安価な外糖の輸入攻勢により、段々と衰退していった。その後は庶民の甘味料として、白下糖の製造が、隆盛期の1割にも満たない規模で細々と続けられた。第2次世界大戦前後では、農家の白砂糖の代用品として各戸に2~3a栽培され、一時回復傾向にあったが、戦後復興とともに減少した。しかし、その後の文化水準の向上とともに本物志向、健康志向が高まり、香川、徳島両県において和三盆糖生産が復興した。

徳島県産地について
徳島県のサトウキビの栽培については、瘠せ地である上板町近辺の土地に合う作物を探していた山伏丸山徳弥が宮崎県を旅し、密かに栽培・製糖技術を学び取ってきたものであり(寛政10年1798年製法完成)、香川県とほぼ同時期ではあるがそれぞれ別々に、産地が形成されてきた。その後、藩の振興策により産地は拡大したが、明治になって外糖の増加により衰退した。糖業の復興については、砂糖代議士と呼ばれたの中川某氏の政治的な活動があったが、時代の流れには抗えず衰退の一途をたどった。その後は香川県と同じ様に、戦前戦後を通して、白砂糖代替品としての栽培が続いた。しかし、徳島では、その間も製菓業者との取引により和三盆糖の製造が継続されていた。戦後の復興と、文化水準の向上とともに和三盆糖の価値も見直されブームとなっている。

産総研:香川をつくった1億年の歴史
今回、地質図を刊行した観音寺地域の大部分は中央構造線の北側にあり(図1)、この北側の地域では約1億年前~8000万年前の深成岩類が最も古い岩石である。この深成岩類は、南西方向の新居浜地域に分布する深成岩類とは含まれる岩石の種類が異なることと、変形の程度が弱いことから、今回新たに観音寺深成岩類と命名した。この観音寺深成岩類を覆うように、約8000万年前頃の海底で堆積した堆積岩(和泉層群)が分布する。讃岐山脈のほとんどは、この和泉層群からできている。さらに伊吹島や七宝山地のような小高い山を作る約1300万年前の瀬戸内火山岩類(讃岐層群)、また讃岐山脈のすそ野には250万年前~50万年前の河川による堆積物(三豊層群)、三豊平野の大部分には約13万年以降に川がつくった扇状地の名残である段丘堆積物が分布する(図2)。このように、観音寺地域は1億年という長い時間を経て、多様な岩石によって形成されてきた。

 讃岐山脈の北側のすそ野に広がる三豊層群には、中央構造線の南側にしか分布しない三波川変成岩類が起源の石が含まれている。これは、昔の吉野川が讃岐山脈を越えて北側に流れていたことを示す。この地層が堆積した年代から推測すると、250万年前~100万年前頃までの讃岐山脈は現在ほど高くなく、吉野川は徳島県から香川県へ流れていたが、100万年前~50万年前頃までに讃岐山脈が十分に隆起した後には、吉野川は山脈を避けるように東方向へ流路を変えたと考えられる。このように観音寺地域の地質から、讃岐山脈が比較的若く、短期間に形成されたことが分かる。また、吉野川の流路変更に加え、讃岐山脈によって太平洋側からもたらされる水蒸気が遮断されて、香川県は乾燥した気候へ変化した。さらに、隆起した讃岐山脈の山麓には段丘堆積物が広く分布しており、その水捌けの良さと乾燥した気候と相まって、小麦栽培に適した土地となり、「うどん」文化が発展したと推測される。

讃岐ジオパーク構想推進準備委員会

讃岐と瀬戸内海は、4度の地球大変動がつくった

讃岐の風景は、現在の暮らしだけを見ても、その成り立ちは分からない。讃岐ジオパーク構想では、約1億年前、1400万年前、300万年前、1万年前という4つの大きな地球の変動を軸に、讃岐と備讃瀬戸の風景を読み解いている。 約1億年前、地下深くでゆっくり冷え固まった花崗岩が、現在の讃岐の大地の基盤となった。庵治石や丸亀城の石垣に使われる石も、この花崗岩である。花崗岩が長い時間をかけて風化し、土砂として海へ運ばれたことが、瀬戸内の「白砂青松」の風景にもつながっている。

約1400万年前には、瀬戸内地域で大規模な火山活動が起こった。そこで生まれたサヌカイトなどの火山岩は、その後の長い侵食によって、屋島のようなテーブル状のメサや、おむすび形の山々、小豆島などの島々という、現在の讃岐らしい独特の景観をつくった。また、サヌカイトや凝灰岩は、旧石器時代から現在まで続く「石の文化」の基盤にもなった。

そして約300万年前、大地の動きが讃岐の地形を大きく変える。中央構造線の活動によって讃岐山脈が隆起し、その北側に讃岐平野が形成された。瀬戸内海でも、地盤が隆起した場所には島の多い「瀬戸」が、沈降した場所には島の少ない「灘」が生まれた。 ここから、讃岐の「水の少なさ」も読み解くことができる。 讃岐平野は大河川によって運ばれた豊かな沖積土が広がる土地というより、山から海までの距離が短く、河川も比較的小さい。水を蓄えにくい地質・地形と少雨の気候が重なり、ため池をつくり、水を大切に使う農業が発達した。

そして約1万年前、氷期が終わると海面が上昇し、現在の瀬戸内海が形づくられる。瀬戸内海は単なる「海」ではなく、縄文時代以来、人や物、情報が行き交う交通路となり、地域の文化を育てる舞台になった。 こうして見ると、讃岐うどんさえも地質と無関係ではない。 讃岐山脈を生み、河川や平野の形を決めた約300万年前の大地の動き。その結果生まれた讃岐の水環境に、人々が適応して農業やため池を発達させた。瀬戸内海では塩や魚が得られ、讃岐では小麦が栽培され、醤油などの発酵文化も育った。

つまり、一杯の讃岐うどんの背景には、山があり、川があり、平野があり、海がある。 讃岐の風景を理解することは、単に「山がきれい」「島が美しい」ということではない。その景観が、どのような大地の動きによって生まれ、そこに人々がどう適応し、農業や産業、食文化をどう築いてきたのかを読み解くことでもある。 讃岐と備讃瀬戸は、4度の地球大変動と、人々の暮らしが重なってできた「大地の物語」なのである。