重要文化財 福永家住宅 秋季一般公開
日時:2022年10月30日(日) 10:00〜15:00
場所:福永家住宅(鳴門市鳴門町高島字浜中150)
連絡:鳴門市文化交流推進課(088-684-1150)
主催:鳴門市

Important Cultural Properties Fukunaga Family Residence Autumn Open House
Date and Time: October 30, 2022 (Sun) 10:00 – 15:00
Venue: Fukunaga Family Residence (150 Aza-hama, Takashima, Naruto-cho, Naruto-shi)
Contact: Naruto City Cultural Exchange Promotion Division (088-684-1150)
Host: Naruto City

『福永家(ふくながけ)』(鳴門市鳴門町高島)は、江戸時代に入浜式塩田をつくり製塩業を営んでいた家の建物で、国の重要文化財建造物に指定されています。福永家住宅は塩田・製塩場・住居が一体となって残っている全国唯一の施設です。

Fukunagake Residence (Takashima, Naruto-cho, Naruto City), designated as a National Important Cultural Property, was built in the Edo period (1603-1868) as a saltworks in the Irihama style. The Fukunaga Family Residence is the only facility in Japan where a salt field, salt mill, and residence remain as a single structure.

福永家(ふくながけ)住宅
住所:徳島県鳴門市鳴門町高島浜中150 [Google Map]
指定:国指定重要文化財(建造物)
建造:1833年 江戸末期

2022年7月2日撮影


国指定重要文化財


船着き場



煙突


屋根



注意。


屋根瓦。赤いパイプのようなものはなんだろう。ポンプの配管かな。


こちらはもうひとつの煙突


水鳥


入浜式塩田の跡地

福永家住宅(徳島県鳴門市鳴門町) 土蔵 文化遺産オンライン

福永家は代々製塩業を営み、屋敷地は周囲に石垣を築き、その北側に接して入浜式塩田が残る。 屋敷地内には主屋をはじめ鹹水溜、塩納屋薪納屋の製塩に関する建物や離座敷、土蔵、納屋が建ち並ぶ。 この住宅は立ちが高く上質の建物である。 屋敷構え及び塩田も近世製塩業の姿を知る上で建造物と一体をなすものとして貴重であるので宅地及び塩田を含めて指定する。

国指定重要文化財(建造物) 福永家住宅 – 文化財|渦の国 鳴門

立地環境
福永家住宅は、かつて広大な塩田が広がっていた鳴門町高島地区の西端に位置し、西側は小鳴門海峡、南側は水尾川に面している。宅地は塩田の一画にあり、ほぼ30m四方でその東側に製塩施設を含む突出部があり、道に接続していた(現在は東側に塩田公園がある)。
宅地は1,466㎡余、塩田は6,499㎡が残っており、指定を受けている(宅地の告示面積は1,383.31㎡)。宅地は南面が昭和44年(1969)ごろ堤防で築かれ水尾川に面し、塩田のまわりは石垣で築かれ、その西側は小鳴門海峡に面している。

創立沿革
福永家は、「先祖年代記」によると、もと板野郡黒崎村(現在の鳴門市撫養町黒崎)に住んでいたが、寛文年中(1661~1673)に高島村で塩田を開き、代々塩業を営んできた。
現在の建物は、棟札により主屋が文政11年(1828)、離座敷が天保3年(1832)、土蔵が天保4年(1833)に建てられた。そのほかの建物のうち、塩納屋は明治42年(1909)に改築されたが、ほかの建物は主屋が建てられた文政11年から天保4年に建てられたと考えられる。
1939年(昭和14年)11月に合同塩業組合(高島字山路)の製塩工場が完成してから釜屋は使わなくなり、昭和15年に茅葺屋根や煙突等を撤去した。その後、鹹水溜の上屋を平濃縮台に改築され、塩納屋以外は改築されずにそのままになった。
1980〜1983年(昭和55~58年度)の保存修理工事のとき、鹹水溜の上屋を茅葺に復し、釜屋を復原した。
1997年(平成9年)12月18日、高島字浜中151番の公園(塩田)を鳴門市に所有権移転した。
2008年(平成20年)8月16日、鹹水溜・釜屋・塩納屋・塩納屋(ポンプ室)・薪納屋の建造物が個人から鳴門市に寄付された。
2012年(平成24年)4月3日、高島字浜中150番の宅地及び主屋・土蔵・離座敷・納屋の建造物が個人から鳴門市へ寄付された。

文化財の価値
鳴門の塩田開発の始まりは1599年(慶長4)年、四国征伐の戦功で阿波に入国していた蜂須賀家政が、播磨竜野(兵庫県)から馬居七郎兵衛・大谷五郎右衛門を招いたのが始まりといわれている。福永家住宅は1828年(文政11年)~1833年(天保4年)の間に建てられた製塩業の民家であり、製塩施設、入浜塩田、住居部分が現在もそろって残されているのは全国でも唯一のものである。
主屋は1828年(文政11)年の建築で、ミセ・オモテ・ナイショ・オクの4部屋とカマヤ・ニワの土間で構成されている。前庭に面するミセ・オモテには、濡縁が廻らされ、オクには箱階段で上がる二階がある。
離座敷は、1832年(天保3)年の建築で、床の間を持つ6畳と4畳の2部屋あり、主屋と渡廊下で接続し、前庭に面する所には濡縁が廻らされ書院風になっている。
土蔵は、1833年(天保4年)年の建築で、床および内壁は板張りで、離座敷に接して建っている。
納屋は、4室に区切り、更に南の間を2室に区切っている。南西隅の間は風呂場、南東の間は便所(浜子用)、南から第2・3室は漬物置き場、第4室は板敷の間で物置になっている。
塩納屋は、イダシ場と塩を計量して袋詰めにする2部屋からなり、イダシ場では釜屋から運ばれた塩が一週間程度貯蔵され、自然に苦汁の除去と乾燥が行われる。
薪納屋は、石炭の付火用の薪を貯蔵する。
鹹水溜は「坪」ともいわれ、下部は粘土で築造された貯水槽、上屋は茅葺きの屋根を架けた施設である。「坪」は内面で13.2m×4.98m、深さ2.4mを測り、650石(117,253㍑)の鹹水が貯蔵できる。地下には配管があり、釜屋の「タブリ桶」へ送水する。「坪」の梁上には歩み板、竹簀子を張り、塩田用具の収納と釜焚夫の就寝の場所兼ねていた。
釜屋は、昭和15年から煎熬方法が変わったため、地域すべての釜屋が取り壊され、共同製塩場が建てられた。解体修理の際、発掘調査と参考資料を基礎に復元されている。中央部に石釜を築き、煙道を設けて外に煙突を築く。内部の煙道は上部を平坦とし、石釜寄りに「温め鍋」を据える。鹹水溜から「タブリ桶」に送られた鹹水は釣瓶で汲み上げられ、「こしおけ」で濾過したあと「温め鍋」で余熱を与えた後石窯で煎熬される。石釜南にある「イダシ場」は、煎熬した塩の苦汁を取る場所である。
塩田は、海水から濃い塩水「鹹水」を採取するための施設で、堤防で囲まれた内部に粘土で床面を形成し、撒砂を敷いたものである。床面は干満の中間位置とし、海水が毛細管現象で床面に上昇するように調整してつくった。毛細管現象で撒砂に附着したものを粘土製の沼井台に入れ、海水を掛けることで濃い海水が採取される。これを「受壷」に集めたのち荷桶で鹹水溜に運ばれる。福永家住宅の塩田も近代化され、コンクリート製の沼井台が導入されたり、一部流下式塩田に構造変化しているが、往時の入浜式塩田の姿を残すものである。
このように福永家住宅及び塩田は、国内で現存する唯一の製塩関連施設で、日本の製塩技術の発展の過程を示す重要な建物群である。