いりこの島 伊吹島には出部屋(でべや)と呼ばれる出産前後1ヶ月を女性だけで集団生活する習俗がありました。産婦は家事から解放され、友達と会話を楽しんだり、ゆっくり産後の養生をすることができました。


瀬戸内日和 #57 伊吹島「出部屋」 – Youtube

瀬戸内日和
日時:2018年8月13日(月) 21:54〜
番組:OHK 8ch (岡山・香川)

出部屋(伊吹産院)跡地。お産を家の納戸で終えた女性たちが1ヶ月間、新生児と別火の生活をしていた共同産室があったところ。子どもを島全体で大切に育てている伊吹島の子育ての原点がここにあります。

江戸時代、三好長七さんが島のために土地を提供したのが始まり。それ以前の産小屋の様子は詳しくは伝わっていない。明治・大正の頃は、4畳半3部屋の棟が2棟ありました。土間で筵(むしろ)を敷いていました。昭和5年、恩賜財団敬服会の助成で畳敷き6畳6部屋の全国にさきがけ近代的な産院となりました。

昭和45年まで使われていましたが、昭和58年に解体されました。日本人とお産、先人たちがどんな子育てをしていたか、産育習俗を知る上でも全国的に貴重で大切に伝えていきたい遺構です。


伊吹島


写真:緑川洋一さん 伊吹島の出部屋内部 1953(昭和28)年

伊吹島の習俗知って/観音寺で「出部屋」写真展 – 四国新聞

香川県観音寺市沖に浮かぶ伊吹島にあった習俗で、産婦が共同生活を送る「出部屋(でべや)」を記録した写真展が、同市有明町の市総合コミュニティセンターで開かれている。岡山県出身の写真家、緑川洋一さん(1915~2001年)が撮影したモノクロ写真26点で、約400年間続いたという島独特の風習を伝えている。29日まで。無料。

 市誌などによると、出産はかつて赤不浄と呼ばれ、血を見ると不漁になるとも考えられたため、産婦が家を離れ、別小屋で産後の約1カ月を集団で暮らしたのが出部屋の始まりという。産婦は家事から解放され、友達と会話を楽しんだり、ゆっくり産後の養生をすることができた。出部屋は分娩(ぶんべん)室も備えられたが、次第に島外の産科医院での出産が増加したため、1970年に閉鎖された。

香川県伊吹島における出産の近代化 – CiNii論文

A study of modernization on Ibuki-jima during showa era,with particular attention to the change of the place for childbirth and the birth attendants.

出産研究は、前近代の出産に関するもの、近代化に関するもの、病院出産に関するものに大別できる。文化人類学者の松岡悦子は、「子どもが自宅ではなく病院で生まれるようになる、ということ」が、出産の近代化の特徴だという。 離島には近代化を直接経験した世代が今も健在で、聞き取りによって内実を明らかにすることができる。離島の出産についての研究はこれまでにもあったが、いまだ議論の余地は大きい。燧灘の島々において聞き取り調査を行った結果、一定の傾向を見出した。明治中頃までは、殆どの島で伝統的な出産が行われた。出産をケガレと捉えることが多く、近代的観点からいうと決して衛生的ではない非日常空間での出産が余儀なくされた。出産の姿勢、介助者という視点からも現代とは大きく異なっていた。出産場所については、島ごとに差異があり、共有のウブヤを使用するケース、農地や屋敷地内にある私有の小屋を貸し借りするケース、各戸が屋敷地内に持つナヤ等を利用するケースなどがあった。こうした習俗が近代化といえる変貌を見せるのは、近代的思想によってケガレ観が緩和されたり、衛生意識が高まったことや、全国的に助産者が資格化されたことが契機になった。大抵の場合、出産場所が屋敷地内のハナレ、更に母屋内のナンドへと変化し、1950年代までには有資格の産婆・助産婦が介助するようになる。1970年代には病院出産が一般化し、現在は各島もれなく妊産婦自体が存在しない。 伊吹島には326世帯793人(2005)が住む。漁業が盛んで、イリコの島として知られる。嘗ては国外にも出漁し、朝鮮半島に加工場をもつ島民もあった。こうした経済的背景もあって、ピークの1950年代には人口4,300人にも達した。現在でも集落内は著しく密集している。 伊吹島には、約400年前から集落共同で使用するウブヤが存在し、デービヤと呼ばれた。産婦は、自宅のナンドでの出産後、約30日間デービヤに篭った。デービヤは、明治初年に4.5畳が3部屋ある建物2棟に改築されたが、土間に筵敷きであった。その後、1930年にも改築されて6畳6間の畳敷きとなり、デービヤの建物自体は近代化を遂げた。名称も「伊吹産院」とされた。この名称は、当時首都圏を中心に増加しつつあった近代的出産施設「産院」を意識していたことが窺える。1930年の改築は、恩賜財団慶福会が「妊産婦保護」のために下賜した建築費が契機となっている。その際の設計図にも「産婦静養室(デベヤ)改築設計図」と明記されている。デービヤは、「ケガレの忌避」という目的を果たしつつ、「産婦静養」というもう一つの目的を前面に出すことで下賜金を得ている。しかし、聞き取りでは「出産直前まで忙しく働いた。デービヤにいる間は天国だった」という感想が得られ、こうした目的が完全に建前であったわけでもない。 出産方法の近代化をもたらしたのは、終戦直後に島へ来た助産婦であった。自宅で出産した直後にデービヤまで歩いて移動するという慣習は医学的に好ましくないとして、デービヤで出産し、そのままそこで静養するよう勧めた。このように、彼女はデービヤという伝統をうまく利用して出産の近代化を進めたのだ。その後、1956年にはデービヤに分娩室が設けられるに至った。しかし、彼女が個人的な理由で大阪に移住すると、島の女性は必然的に地方(ぢかた)である観音寺の病院で出産するようになり、1970年にデービヤは閉鎖され、1983年に解体された。 地理的、経済的条件が類似している広島県走島では、ウブヤ習俗自体がみられない。一方、志摩半島の越賀は、離島でもなく、海女が家計を担うという地域だが、ウブヤが「産婦保養所」に発展したという、伊吹島に酷似した例がみられる。越賀の近隣集落でも、ウブヤ習俗は多く見られたが、近代化の過程でウブヤが存続された例は他にない。 産院や産婦保養所に変化しながらもウブヤが存続した伊吹島と越賀において、その存続と発展の背景には、当時の女性の厳しい労働条件があるものと考えられている。しかし、伊吹島・越賀の労働環境は、周辺の地域に比して、特別ではなかった。近代化を推進する契機について考えた時、僻地では国や県の決定よりも、助産婦等の個人的な意思決定や行動が優先して機能し、地域ごとに個性豊かな偶発的契機によって近代化の方向性を左右し、時には決定づけてきたのだろう。

巴里今昔―緑川洋一写真集
緑川 洋一
東方出版
売り上げランキング: 1088429
瀬戸内海 島めぐり (とんぼの本)
緑川 洋一 古茂田 不二 岡谷 公二
新潮社
売り上げランキング: 194628

参考:
伊吹島の出部屋(上)セピア写真が語るもの-四国新聞社
伊吹島の出部屋(下)新たな息吹-四国新聞社
伊吹島の習俗知って/観音寺で「出部屋」写真展 | 香川のニュース | 四国新聞社
しまレポ