四国霊場第81番札所 白峯寺
住所:香川県坂出市青海町2635 [Google Maps]

No. 81 on the Shikoku pilgrimage Shiromine-ji temple
Address : 2635 Aomi town, Sakaide city, Kagawa pref., Japan [Google Maps]


階段をあがる


白峰御陵と崇徳上皇


白峰寺

玉章の木(たまずきのき)
Hearing the birdsong / I remember my beloved city / So far from the capital / Mountain cuckoo’s call
鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす


狛犬「あ」


「うん」


重要文化財 頓証寺勅額(勅額門)


烏天狗。相模坊大権現さま。日本八天狗の一狗。かつて相模国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者で、相模坊と称しました。後に、讃岐国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀されました。


重要美術品、石灯籠。


崇徳天皇御陵遥拝所。西行法師廟参の遺跡。上田秋成によって江戸時代後期に書かれた『雨月物語』に記述があります。


羊と猿

四国霊場第81番札所 白峯寺
住所:香川県坂出市青海町2635 [Google Maps]

No. 81 on the Shikoku pilgrimage Shiromine-ji temple
Address : 2635 Aomi town, Sakaide city, Kagawa pref., Japan [Google Maps]

Shiromine Imperial Tomb and Emperor Sutoku

The Shiromine Imperial Tomb is the memorial tomb of the Emperor Sutoku. But why would there be an imperial tomb so far from the capital city?

After failing to suppress the Hogen Rebellion in 1156, Emperor Sutoku was exiled here to Sanuki Province (modern-day Kagawa). After spending eight years in Sanuki, the Emperor passed away at the age of 46 in 1164. He was cremated on the peak of the Chigogadake clidd and his remains were enshrined here.

There are many legends about Emperor SUtoku here in the ShIramine temple, Fuchu town and Hayashida town in Sakaide city, and in other areas with connections to him.

One of the most famous of them all is the legend of the tamazuki tree (Japanese zalkova). The story describes an exchange between Emperor Sutoku and a lesser cuckoo, known for its sad song. The legend has bee passed down through the generations by people who sympathize with the emperor’s tragic fate. This is a famous tanka poem said to have been written by Sutoku.

(Kagawa pref. / Ministry of the Enviroment)

白峯御陵と崇徳上皇

白峯御陵は、崇徳上皇の御陵(お墓)です。都から遠く離れたこの地に御陵があるのはなぜでしょう。

崇徳上皇は保元の乱(1156年)で武運つたなく敗れ、讃岐国に配流(はいる)されてきました。讃岐在住8年、46歳(1164年)で崩御され、稚児ヶ獄(ちごがだけ)の崖の上で荼毘(だび)に付され御陵が築かれたのです。

ここ、白峯寺や、香川県坂出市府中町、林田町などには、上皇にまつわる伝説や、ゆかりの土地が数多く残っています。

なかでも玉章木(たまずさのき/ケヤキ)の伝説は有名です。この伝説は崇徳上皇とホトトギスとの交流を描いたものです。上皇の悲運の生涯に同情し長い間人々に語り継がれてきたのでしょう。

(香川県・環境省)

Ugetsu Monogatari – Wikipedia

Ugetsu Monogatari (Tales of Moonlight and Rain) is a collection of nine supernatural tales by the Japanese author Ueda Akinari, first published in 1776.

Largely taken from traditional Japanese and Chinese ghost stories, the collection is among most important works of Japanese fiction of the 18th century, the middle of the Edo period. Edo literary achievements are normally associated with the fiction of Ihara Saikaku and drama of Chikamatsu Monzaemon in the Genroku period and the popular literature of Takizawa Bakin in the later Bunka Bunsei period. Ugetsu Monogatari, then, occupies an important yet often overlooked position between these two moments in Edo literary history. The collection is the author’s best known work. He had previously written two ukiyo zoshi in 1766-7 and a second collection Harusame Monogatari was not printed until 1907.

Shiramine
Shiramine (White Peak): “a story based upon a Japanese legend that features the native supernatural flying goblin tengu, likewise has strong elements of a folk tale prototype”.

雨月物語 – Wikipedia
『雨月物語』(うげつものがたり)は、上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。

白峯(しらみね)
諸国を巡る西行の道行文から、「白峯」は始まる。この部分は、当時西行作と信じられていた『撰集抄』巻一「新院御墓白峰之事」と巻二「花林院永僧正之事」が下敷きになっている。西行は旧主である崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ、読経し、歌を詠む。「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」。すると、「圓位、圓位」と西行のことを呼ぶ声がする。見ると、異様だが判然としがたい人影がこちらを向いて立っていて、「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな」と返歌した。その内容から西行は、声の主が崇徳院であることに気づいた。

西行は、崇徳院が成仏せずに怨霊となっていることを諌めた。ここから西行と院の論争が始まる。西行は『日本書紀』「仁徳紀」にある大鷦鷯の王、菟道稚郎子の皇位相譲の話を例に出して王道の観点から、院は易姓革命論から、それぞれ論をぶつけあう。次に、西行は、易姓革命を唱えた『孟子』が日本に伝わらなかったこと、『詩経』「小雅」の一篇「兄弟牆(うち)に鬩(せめ)ぐとも外の侮りを禦(ふせ)げよ」という一節を説き、ついに院の、私怨がゆえである、との本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」の一件の後、保元の乱で敵方に回った者たちを深く恨み、平治の乱がおこるように操ったのだ、という。そして、大風がおき、ここで初めて院の、異形の姿が顕わになる。また、配下の天狗、相模がやってくる。そして、院は、平氏の滅亡を予言する。西行は、院の浅ましい姿を嘆き、一首の歌を詠む。「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」。すると、院の顔が穏やかになったように見え、段々と姿が薄くなり、そして消えていった。いつのまにか月が傾き、朝が近くなっている。西行は金剛経一巻を供養し、山を下りた。その後、西行は、このできごとを誰にも話すことはなかった。世の中は、院の予言通りに進んでいった。院の墓は整えられ、御霊として崇め奉られるようになった。

西行法師と白峯伝承

思いやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる 心細さを

御陵石段前に建つこのお歌は、風雅和歌集に見える崇徳院の御辞世のお歌といわれる。このお歌には添える書があり「松山におはしまして後都なる人の許に遣わせ給ひける」とある。

讃岐の配所にあって日々望郷の思い止みがたく都なる人の許に送られた悲しみのお歌である。

保元元年(1156年)京を舞台にくりひろげられた保元の乱は王朝内部の主導権争いに端を発した骨肉背反の壮絶な戦いであった。この戦いは平安期の王朝政治体制が崩れ、やがで武の世界へと移り替わるきっかけとなった、日本の歴史の大きな転換を促す戦いでもあった。この戦に破れた崇徳院は敗戦の責を負わされ、遥か南海の果て讃岐に配流される。そして配所に月を眺めること8年有余、再び都に許されることなく悲憤のご生涯をここ讃岐に閉じられた。

西行の白峯展墓は院崩御の数年後のことであるという。西行は険しい苔の下道をたどりながらやがで御陵前に足をのばす。院崩御の僅か数年の後にもかかわらず、陵(みささぎ)は流れるに任せ、訪ね詣でる人もなければ焼香散華の跡だに見えない。

よしや君 昔の玉の床とても かからん後は 何かはせむ

山家集に見えるこの歌は、この時西行が院の亡魂に捧げた鎮魂絶唱の歌として今に広く伝えられる歌である。ここから御陵までの参道脇に建つ歌碑郡には、こうした保元伝承を題材とした衰調をおびた歌が数多くみられる。

白峯伝承保存会 坂出市教育委員会 2004年(平成16年)1月