長原渡船(ながはらわたしぶね)は、徳島県徳島市川内町米津と徳島県板野郡松茂町長原を結ぶ今切川の渡し船です。かつて117カ所あった吉野川水系の渡船は、長原渡船だけになった徳島県唯一の川の「県道」です。国土交通省徳島河川国道事務所の『吉野川の渡しガイドブック』によると、1873(明治6)年以前からあった民間の渡し船にはじまります。1959年に県営化されて、1984年からは県が松茂町に運航を委託しています。休憩の時間帯以外は、乗客がいれば運航、年中無休、無料。

長原渡船(ながはらわたしぶね)
住所:徳島県板野郡松茂町長原 [Google Map]
時間:6:30〜18:30
電話:088-699-6884

Nagahara Ferryboat
Address : Nagahara, Matsushige town, Tokushima pref., Japan [Google Map]
Time : 6:30-18:30
Tel : :088-699-6884


長原渡船場


1)長原渡船欠航の場合は、対岸に赤旗掲揚及び黄色灯(回転灯)が点滅いたしますので、長原方面へおいでの方は、加賀須野橋へお回りください。
2)暗くなると人影を確認できなくお待たせすることがあります。水銀灯の下の明るいところに立ち旗を振って合図してください。
松茂町


県営長原渡船についてお知らせ
運航時間:6時30分から18時30分まで
運航を行わない時間(緊急時を除きます)
9:30〜10:00 / 10:30〜11:00 / 11:30〜13:00 / 13:30〜14:00 / 14:30〜15:00 / 15:30〜16:00 / 16:30〜17:00 / 17:30〜18:00


対岸に待機している船員さんが気がついてくれて船がやってきます。


救命胴衣


あっという間に到着


待合小屋


せっかくなので周辺を散策してみます。青と赤の漁船


公園


駐車料金:1回につき一万円


カモ


不思議な地形。埋め立ての海岸線か川跡でしょうか。


パイプが繋がれた船


形状からして、海苔(のり)養殖の摘み取り船かな。遠くに見えるのは眉山(びざん)


文字


いまぎれ川


いまぎれ川


半島の先に道が続いています。


カモメ


灯台まで続く道。長原漁港/突堤。遠くに淡路島や沼島がみえます。


赤い灯台


いい形。赤いタイル貼り


丸窓


長原導流堤灯台。初点 1963年(昭和38年)10月


1937年(昭和12年)6月。潮害除去のため、突堤(とってい/海岸と直行方向に沖合に向けて設けられる堤防状の構造物)
石碑。1938年(昭和13年3月)


帰り


到着


ありがとうございました!

長原渡船(ながはらわたしぶね)
住所:徳島県板野郡松茂町長原 [Google Map]
時間:6:30〜18:30
電話:088-699-6884

Nagahara Ferryboat
Address : Nagahara, Matsushige town, Tokushima pref., Japan [Google Map]
Time : 6:30-18:30
Tel : :088-699-6884

渡船運航時間・渡船の概要 | 松茂町

運航時間
6時30分から18時30分まで

運航を行わない時間(緊急時を除きます)
9時30分から10時まで
10時30分から11時まで
11時30分から13時まで
13時30分から14時まで
14時30分から15時まで
15時30分から16時まで
16時30分から17時まで
17時30分から18時まで

運航日
年中無休ですが気象条件等により欠航する場合がありますので、ご利用の際は渡船場までお問い合わせ下さい。(電話:088-699-6884)

乗船客へのお願い
川へゴミ等を捨てないでください。
他の乗船客に迷惑をかけないようにしてください。
非常時や安全確保のために係員が指示した時には、それに従って行動してください。
米津から乗船の際、係員が来ない時は、渡船場へ連絡してください。

長原渡船 – Wikipedia

長原渡船(ながはらわたしぶね)は、徳島県徳島市川内町米津と同県板野郡松茂町長原を結ぶ今切川の渡し船である。船は松茂町側に駐在し、6時30分から18時30まで運航。途中に8回設定された休航時間以外は随時運航する。徳島市側から利用の際は、用意されている旗を振るなどして対岸に合図する。

・吉野川水系の河川では唯一現在も渡し船を運航しており、明治頃は110余個所の渡船場があった。
・徳島県道219号古川長原港線の一部を構成することから運営費は徳島県が負担しており、運賃は無料である。
・今切川約300mを第2今切丸で運航しており、船は松茂町長原側で待機している。
・運営は北岸の松茂町が県より委託運航を行っている。

吉野川の渡しガイドブックの発行について – 国土交通省徳島河川国道事務所

吉野川は四国4県にまたがり、流域に住む私たちに数多くの恵みをもたらしてくれ、歴史的にも流域の人々と深い関わりがありました。その一つに吉野川の流れを利用し、川の両岸を結んだ「渡し」があります。かつて徳島県内の吉野川、旧吉野川、今切川には、115箇所の「渡し」がありましたが、現在では今切川の河口付近で1箇所の「渡し」が運航されています。「渡し」は、人・物資の輸送路のみならず、地域の文化の交流路としても重要な役割を担っていたのではないかと考えます。

「吉野川渡しの説明板と碑(標柱)」の設置について 国土交通省四国地方整備局 – PDF

吉野川は歴史的に人と川との繋がりが深く、橋梁が架設される以前には吉野川はその両岸に住む人々にとっては大きな障害であり 「渡し」が両岸を結ぶ唯一の交通路として、無くてはならないものでした。

吉野川講座 ~吉野川の渡しについて~ 国土交通省四国地方整備局 – PDF

あけましておめでとうございます。今年も読者の皆様と一緒になって、吉野川について学んでいきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。みなさん、かつて川の対岸を結ぶ「渡し」というものがあったことをご存じですか?現在のように多くの橋梁が架設される以前の吉野川では、流域の人々の交通路として、物資の輸送路として、また文化の交流路として「渡し」は人々の生活を支える重要な役割を担っていました。そこで、今回の吉野川講座は「吉野川の渡わたし」について皆さんにご紹介したいと思います。

吉野川は徳島平野を東西に流れ、川幅が広く、水量も多い河川です。現在では多くの橋 梁が架設されていることもあり、南北の交通は便利になっていますが、中世から大正の初 期に至るまで、吉野川では「渡船(わたしぶね)」が大変重要な交通機関でした。 1900年(明治33年)に吉野川南岸の徳島市から舟戸まで鉄道が開通し、さらに1914年(大正3年)には池田 まで開通したため、吉野川の渡船による交通路としての機能は失いました。しかし、これ をきっかけに吉野川の渡船の重要性を高める結果となりました。 理由としては、吉野川南岸を通る鉄道は、北岸の人々が利用するためには、吉野川を渡 らないといけません。北岸の人々は吉野川を渡り鉄道を利用しなければ、物資の輸送も地 域の発展も期待できなかったのです。 藩政時代から渡船は重要度を高めていきましたが、同時に渡船による遭難事故も多く、 溺死者の霊を慰める地蔵尊や供養塔も数多く存在しています。また、渡船の欠点は、洪水 にあうと船止めになることや荷を積みかえる手間がかかっていました。

岡田式渡船について
渡船の交通量が飛躍的に増大するにつれて、渡船は大型化され、隻数も増加していきま したが、手漕ぎの船では渡船能力にも限界があり、決して安全な乗り物ではありませんで した。これを解決したのが、「岡田式渡船」の就航です。 「岡田式渡船」は、岐阜県関市(以前の山県郡戸田村)出身の岡田只治(おかだただじ)氏が1897年(明治30年)に考え、1903年(明治36年)に「岡田式渡船装置」の名称で特許を受け渡した装置のことです。

一般の渡しは、船頭が櫓ろや櫂かいを使って船の航行をするのに対し、岡田式は基本的に両岸に張り渡したロープと滑車を使って船の航行を行いました。水の流れる力を利用するため、大きな力を必要とすることなく、増水時にも、比較的安全に渡しの航行ができていました。

<コラム>岡田式渡船装置
岡田只治はある日、川面に揺らぐ 1 枚 の木の葉が 1 本のクモの糸につられて流 れのままに行ったり来たりしながら浮いているのを見ていたことが「岡田式渡船装置」研究開発の糸口になりました。