高松城ができるより昔、城の周辺は「野原(のはら)」と呼ばれ漁村があったと『南海通記(なんかいつうき)』に記録があります。以前は、高松城の出現にあわせて新しい城下町が突然出現したと考えられていました。しかし、その後、サンポート高松の開発に伴い、1995〜1999年(平成7〜11年)に発掘調査が行われ、船着場や碇(いかり)も出土し、自然地形を利用してつくられた中世の港があったことがわかりました。高松市街地の下に埋没している中洲や砂堆上に初めて人の活動が認められるのは、弥生時代後期です。浜ノ町遺跡では、白磁四耳壷を埋納していた13世紀末〜15世紀末の集落跡が確認されています。

Before the construction of Takamatsu Castle, the area around the castle was called “Nohara” and was a fishing village, according to the “Nankai Tsuki. In the past, it was thought that the new castle town suddenly appeared when Takamatsu Castle appeared. However, excavations conducted between 1995 and 1999, along with the development of Sunport Takamatsu, unearthed a landing stage and anchorages, and revealed the existence of a medieval port built on the natural terrain. It was in the late Yayoi period that the first evidence of human activity was found on the sandbars and sand deposits buried beneath Takamatsu’s urban area.

2016年撮影

考古学者・乗松真也さんにご案内いただき、高松城下図屏風や古地図をみながら高松の街をあるきました。坂の少ない平坦な高松の町で、かつての砂堆などの微地形を体感しながら歩くのがとても楽しかったです。


生駒親正(いこまちかまさ)さんが讃岐の国の大名になった1587年頃、この辺りは「野原」と呼ばれた港町でした。

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弥生時代後期には人の活動があった砂堆(さたい/デューン)の盛り上がりはいまでも、微地形の変化から読み取ることができます。JR四国の本社ビルから南側にむかって道が僅かに傾斜しています。この駐車場の平面と、隣の建物の基礎の水平線がよくみると斜めになっているのがわかります。(写真右側方向が砂堆のあったJR四国本社)

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高松の町の下に埋もれている中洲や砂堆の上に人の活動が認められるのは、弥生時代後期。


3~2千年前にいまよりも海水準が2mほど低下した「弥生の小海退」が起きた頃は、このあたりの海岸線もより後退し砂堆の陸地部分が広がり自然の港となったのだろうか。


高松城の堀の痕跡も、今の道のつくられかたに残っています。普段見慣れた道ですが僅かな地形の変化を見逃さずに観察していると、数千年前の人の暮らしも垣間見ることができる面白さ。かつての海岸線がどこにあったのか想像しながら歩くのも楽しいです。


香川県指定有形文化財『高松城下図屏風』。近年、発掘調査において、この絵図に描かれた地割と同じ地割などが確認され、その描写の正確性も証明されつつあります。当時の景観を知る上で、貴重な資料と言えます。


野原港での荷揚げの様子(復元イラスト)。


景観復元図。(野原、12〜13世紀前葉)。


【国指定史跡】高松の古墳の特徴はキャンディー型『石清尾山古墳群』 – [National Historic Site] Iwaseoyama kofun Tumulus Cluster | 物語を届けるしごと

浜ノ町遺跡 – サンポート高松総合整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 第6冊 2004年3月 香川県教委員会 財団法人香川県埋蔵文化財調査センター

地理的環境

現在の高松市街地とその周辺は、高橋学氏によって旧香東川(こうとうがわ)の作用を受けた三角州帯に分類されている(高橋1996)。香東川は、寛永期に現在の石清尾山(いわせおやま)西麓の流路に固定されるまで、石清尾山の東側の高松平野中央部を流れていた。中世~近世初頭までは、石清尾山麓から西浜(にしはま)に到る流路群(現橘鉢谷川(すりばちだにがわ)に並行)と、石清尾山南麓から現上福岡町(かみふくおかちょう)に到る流路群(現御坊川(ごぼうがわ)に並行)を旧香東川の主な流路とし、それらに挟まれた地域が現在の高松市街地である。そしてこの地域は、微高地状を呈する比較的安定した土地であった可能性が指摘されている(佐藤編2003)。

浜ノ町遺は、現高松市街地海浜の砂堆上に位置している。この砂堆(砂堆A)は、現在の地割から南西一北東方向であったことが推測される。浜ノ町遺跡の遺構面を形成する基盤層中からは弥生時代後期~平安時代の遺物が出土し、基盤層上面の包含層中には13世紀代の遺物が認められることから、砂堆Aは古代までの堆積によって形成され、古代末~中世前半に安定したと考えられる。浜ノ町遺跡の南約200mには扇町一丁目遺(13世紀末~ 15世紀前葉)が存在する。扇町一丁目遺跡周辺(現扇町付近)には砂堆Aよりもやや東に振る方向の地割が認められ、砂堆Aとは別の砂堆(砂堆B)の存在が推測される。砂堆Bの形成時期は、砂堆Aよりも遡ると考えられるが、 出土遺物などでは確認できない。砂堆A・B間は標高がやや低く、後背湿地状を呈していたようである。地元住民の間でも、この部分一帯の水はけが悪いことはよく知られている。

歴史的環境

野原郷の中世遺跡

現在の高松市街地とその周辺部は、野原(のはら)郷 と呼ばれ、一部は1086年に野原庄が立庄されている。また、『兵庫北関入船納帳』には船籍地として「野原」の名がみられることから、郷内に港があっ たことが窺える。近年高松市街地の発掘調査が進み、断片的ながら中世におけるこの地域の実態が明らかになりつつある

調査地が含まれる西浜では、遺跡の立地や搬入品の多さなどから港湾施設と考えられる11世紀後半~13世紀前半の礫敷遺構が検出されている(佐藤編2003)。また、浜ノ町遺跡の南の砂堆上に立地する扇町一丁目遺跡では、14世紀前葉~15世紀末の遺構・遺物が確認されている。浜ノ町遺跡の北西に位置する蓮華寺(れんげじ)と南西にある若一王子(にゃくいちおうじ)神社は、野原郷地頭岡田氏の居館跡とされている。蓮華寺は1444年(文安元年)空山が開創し、1471年(文明3年)岡田氏が保護、若一王子神社は1275(健治元年)岡田丹後守宗重が紀州熊野の若一王子権現を勧請して創建したとされている。1412年(応永19年)書写の京都北野社一切経奥書には野原西浜極楽寺の名がみえ、所在地は特定できないものの、調査地周辺に極楽寺という寺院があったとされる。都市計画道路高松駅南線建設に伴う高松城跡の調査では、16世紀の遺構から「野原浜村無量寿院」の線刻がある丸瓦が出土しており、高松城築城に伴い西浜に移転した無量寿院が、それまで八輪島(現高松城本丸付近)にあったと伝えられていることと符号する。

一方、現高松城本丸の南部分では、高松城(丸の内地区)で13世紀末~14世紀前葉の井戸2基が検出されており(松本2003)、付近一帯が居住域であったことがわかる。中世遺構面直下の包含層からは土師器甕や飯蛸壺(いいだこつぼ)などの古代の遺物も一定出土し、西浜地域とは異なり、この段階ですでに安定した土地条件を備えていたものと考えられる。片原町遺跡では14世紀後半~ 15世紀初頭の遺構が検出され、同時期には高松城東の丸跡(県民ホール地区)でも遺物が確認されている。

16世紀末、生駒親正が新たに城を築くにあたって野原の地を選んだ理由については、讃岐の中心であるという地理的な長所のみが伝えられている。ところが、発掘調査により判明しつつある中世野原の状況は、地形的な要因や前代までに形成された経済的基盤なども新城建設の背景として考慮する必要があることを示している。

高松城跡(無量壽院跡) – 市街地再開発関連街路事業(高松駅南線)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書

高松市街地の下に埋没している中洲や砂堆上に初めて人の活動が認められるのは、弥生時代後期である。高松城内南の武家屋敷で行われた発掘調査(新ヨンデンビル別館)では、ベースとなる砂層上面より柱穴とともに弥生土器が多く出土し、付近に集落が存在していた可能性が指摘できる。この発掘調査では、平安時代前期の溝もわずかながら確認している。

この地域の土地が安定し、人が恒常的に居住できるようになるのは平安時代後期と考えられる。当時、この地域は箆原郷(のはら)と呼ばれ、安楽寿院領である 野原庄が高松城跡の南方に所在していた。野原庄は、白河院の勅使田が応徳年頃(11世紀末葉)に立券荘号されたものである。康治2年(1143年)8月19日の太政官符によれば野原庄の四至が条里によって表記されていることから、土地が安定し条里地割または条里呼称がこの地まで普及していたと考えられる。

さらに時代が下ると、荘園としての機能以外にも、文安2年(1445年)の「兵庫北関入船納帳」 には船籍地として名前が記載されていることから、中世においては港町としての機能を有していたと考えられる。時代は遡るが、高松城跡西の丸地区の発掘調査では、11世紀後半~13世紀前半の護岸施設とともに県外から搬入された土器が高い比率で出土している。さらに、西の丸地区に隣接する浜ノ町遺跡では、白磁四耳壷を埋納していた13世紀末から15世紀末の集落跡が確認されている。

一方、高松城跡東の丸地区に目を転じると、16世紀後半以前の漁民の墓群が検出されている。 城跡より南東方向にある片原町遺跡においては、15~16世紀に属するL字形の大溝を検出しており、これは居館の外側にめぐらしていた堀の一部と考えられている。

このように、高松市街地下において、古代末から中世の集落等が確認され、文献からもうかがえるように、かつて港町が栄えていたとえられる。この砂堆や中洲上に中世都市が立地する状況は、博多や草戸千町遺跡にも見られるように全国的な傾向であり、これらの都市をつなぐ交易が行われていたのであろう。このような時代背景のもとに、高松城がこの地に築かれ、城下町が整備されたと考えられる。

海に開かれた都市 高松〜港湾都市900年のあゆみ – PDF
特集 香川県歴史博物館と香川県埋蔵文化財センターの共同展示

近年の発掘調査などから、港町としての高松の発展は近世城下町からではなく、中世からはじまることがわかってきました。

従来の認識では、野原(のはら)と呼ばれた高松城周辺は、築城以前に漁村であったと『南海通記(なんかいつうき)』に記載されるように、高松城下町は全く新しい都市として出現したかのように理解されてきました。

1995年(平成7年)〜1999年(平成11年)の高松駅前の発掘調査で、中世の港の跡が発掘されました。自然地形を利用した港で、杭と横木を組み合わせた船着場や木製の碇(いかり)も出土し、中世港町、野原の一部を見ることができます。

現在の大阪府和泉地方で作られた瓦器椀(がきわん)が積荷として荷揚げされ、その場で破損品を取り除いた後、各集落へ運ぶというモノの流通の様子が明らかになりました。

文献調査からみた野原
中世の野原を考える上で興味深い史料が『さぬきの道者(どうじゃ)ー円日記』です・ここには、築城直前の野原には複数の集落があり、寺社や小規模な領主、職人といった階層や立場の違う住民が異なる集落に暮らす状況がしるされています。こうした記録は、港町・野原において、近世城下町の特徴である、住み分けがすでに行われていたことを教えてくれます。

中世港町・野原
発掘調査や港町の現地調査、文献調査から、これまで知られていなかった築城以前の高松の様子が復元できるようになりました。
中世前半の野原には自然地形を利用した港があり、瓦器椀をはじめ多くのモノの流通にたずさわる港町として栄えてきました。しかし、自然地形を利用した港は長く維持できず、港としての機能を失います。
その後、港は現在の浜ノ町や片原町付近に移動し、中世後半には県内でも有数の港町に発展します。そこでは都市の重要な要素である住み分けが行われ、それぞれの集落が異なる役割を担い、港町・野原を形成していました。京都や大阪といった主要な都市にも見劣りしない都市的な生活スタイルを取り入れた集落も営まれ、港町・野原は海に開かれた年として繁栄していました。(香川県歴史博物館専門学芸員 松本和彦)