若宮ノ東遺跡(高知県南国市篠原)から出土した弥生時代後期末~古墳時代初めの土器片に、国内最古の文章の可能性がある2文字の漢字が刻まれていました。その二文字がまさに高知県人らしい言葉。「何不」

「何不」は、漢文で「なんぞ~ざる」、「どうして~しないのか」との意味。英語だと「Why not?」でしょうか。ジョン万次郎(1827-1898)、坂本龍馬(1836-1867)、岩崎弥太郎(1835-1885)を生んだ高知県。「なんでしないの?」「当然やるでしょう。」「行動あるのみ!」という、いごっそうな(気骨のある)高知県民らしい前のめり精神を伺わせる二文字。これは、高知県や南国市のキャッチコピーにしたらいいんじゃないだろうか。

Pottery fragments from the late Yayoi period to the early Kofun period excavated from the Wakamiya-no-Higashi Site (Shinohara, Nankoku City, Kochi Prefecture) bore two Chinese characters that may be the oldest written words in Japan. Those two characters are words that are typical of Kochi Prefecture. ‘Nan-fu’ means ‘why not’ in Chinese. In English, it would be ‘Why not?’ Sakamoto Ryoma, John Manjiro, Iwasaki Yataro. Why not? Of course, we should do it! These two characters suggest a proactive spirit of taking action. Perhaps these two characters could be used as a catchphrase for Nankoku City or Kochi Prefecture.

漢字「何不」が刻まれているとみられる刻書土器。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター。

漢字「何不」が刻まれているとみられる刻書土器。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター。

高知県南国市の若宮ノ東遺跡から出土した弥生時代後期末〜古墳時代初め(2〜3世紀)の土器片に、漢字2文字「何不」が刻まれている可能性が高いと、高知県立埋蔵文化財センターが発表しました。「何不」は漢文で「どうして〜しないのか」という反語表現であり、文章の一部であれば国内最古級の漢字による文章となる可能性があります。この土器片は2018年度の発掘調査で竪穴建物跡から見つかったもので、焼成前に工具で刻まれたとみられています。全体では最大7文字程度の文章が刻まれていた可能性もあるとのこと。同センターでは、文字の由来や用途は不明としながらも、日本における文字使用の歴史を考える上で貴重な資料と位置づけています。

The Kochi Prefectural Centre for Buried Cultural Properties has announced that pottery fragments excavated from the Wakamiya-no-Higashi Site in Nankoku City, Kochi Prefecture, dating from the late Yayoi period to the early Kofun period (2nd to 3rd century), are likely to have two Chinese characters, ‘何不’ (nan fu), engraved on them. “何不” is a rhetorical expression in Chinese that means ‘why not?’ If it is part of a sentence, it could be one of the oldest Chinese character sentences found in Japan. The pottery shards were discovered during excavations in 2018 at the site of a pit dwelling and are believed to have been carved with a tool before firing. It is also possible that the entire inscription contained up to seven characters. While the centre notes that the origin and purpose of the characters remain unclear, it considers them a valuable resource for understanding the history of character usage in Japan.

若宮ノ東遺跡
住所:高知県南国市篠原1339 [Google Maps]

Wakamiya-no-Higashi Ruins
Address: 1339 Shinohara, Nankoku City, Kochi Prefecture [Google Maps]

西から見た大型掘立柱建物跡、中央奥は県道、左上の白いビルは南国市役所、右上の白い建物は高知東工業高校の校舎(高知県南国市篠原)。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

西から見た大型掘立柱建物跡、中央奥は県道、左上の白いビルは南国市役所、右上の白い建物は高知東工業高校の校舎(高知県南国市篠原)。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

若宮ノ東遺跡全景。高知県南国市篠原(しのはら)。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

若宮ノ東遺跡全景。高知県南国市篠原(しのはら)。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

土器片位置図。高知県立埋蔵文化財センター

土器片位置図。高知県立埋蔵文化財センター

若宮ノ東遺跡出土の文字が刻まれた可能性のある土器片。高知県立埋蔵文化財センター

若宮ノ東遺跡出土の文字が刻まれた可能性のある土器片。高知県立埋蔵文化財センター

漢字「何不」が刻まれているとみられる刻書土器。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター。

漢字「何不」が刻まれているとみられる刻書土器。公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター。

県内の発掘情報「若宮ノ東遺跡(南国市篠原)」 | 公益財団法人 高知県立埋蔵文化財センター

若宮ノ東遺跡は南国市篠原に所在する遺跡で、県道・都市計画道路高知南国線の建設にともなって発掘調査が継続して実施されています。遺跡からは、弥生時代の竪穴建物群をはじめとする集落跡や古代の掘立柱建物などの遺構・遺物が数多く確認され、弥生時代から中近世までの複合遺跡であると理解されます。なかでも平成30年度の調査で発見された大型掘立柱建物跡は県内最大級の規模を誇り、土佐の古代社会を見ていくうえでも特筆する内容を備えています。県道に関する調査の周辺では、南国市教育委員会が市の都市区画整理事業のための発掘調査を実施しており、県と市を合わせた複数年にわたる広域な発掘調査により、土地に眠る古代の記憶が現代に甦ろうとしています。

大型掘立柱建物跡の発見
掘立柱建物跡〈ほったてばしらたてものあと〉とは掘った穴(柱穴〈ちゅうけつ〉)に柱を立て埋め戻して柱を固定し、屋根をかける建物です。今回見つかった柱穴は一辺約1.2mの隅丸方形〈すみまるほうけい〉を呈し、深いものでは1.6mもありました。柱の直径をはるかに超える大きな柱穴です。柱穴は南北に3基ずつ、東西に8基ずつが整然と並んで見つかりました。正確な測量が行なわれていたことが窺〈うかが〉われます。建物の平面規模は柱と柱の間の数であらわすことができ、今回の建物は2間〈けん〉×7間となります。柱自体は抜き取られていましたが、柱の痕跡(柱痕跡〈はしらこんせき〉)から直径は約30㎝の柱が立てられていたと推測されます。柱痕跡と柱痕跡の距離(柱間寸法〈ちゅうかんすんぽう〉)は約3m(10尺)ありましたので、床面積は南北約6m、東西約21mの約126㎡となります。高知県の古代のものでは最大規模のものです。(廂〈ひさし〉まで含めると8世紀後半の下ノ坪遺跡(香南市)で見つかっている建物跡が最大のものです。)また、柱間寸法が約3mもあるものは県内では他に例がありません。

須恵器の大甕を割って、安全を祈願
3つの柱穴から別々に出土した須恵器の破片どうしがくっつきました。柱穴に柱を立て埋める時に須恵器の大甕〈おおがめ〉を割り、特定の柱穴に埋めたようです。柱を立て、柱穴を埋める段階で建物が無事に完成することを祈願した祭祀を行なっていたと考えられます。この大甕にはお酒でも入っていたのでしょうか。

7世紀後半の特別な施設
今年度(平成30年度)の発掘調査で見つかりました大型の掘立柱建物跡と平成28年度と平成29年度に見つかっていました大型の柱穴列や溝跡が一連の施設であることが明らかとなりました。以上のことから掘立柱建物跡の周囲に塀を巡らせ、さらに外側に溝を巡らせていました。塀は柱穴の規模から周囲からは中の様子が見えず、見た人は威圧感を受けたことでしょう。特別な施設であったことは間違いありません。この施設の時期については溝跡から見つかった7世紀後半の須恵器の蓋〈ふた〉から飛鳥時代と考えられます。飛鳥時代は奈良県に都を造り、中央集権国家を目指していた時代で、古墳時代的な支配体制から律令国家的な支配体制への転換期にあたります。土佐ではどのようなにして律令国家に組み込まれていったのかを考古学的な成果から明らかにすることができます。このことは土佐(高知県)のことだけにとどまらず、中央政権が地方をどのように支配していったのかを明らかにしていくためにも重要な成果と言えます。