大河の存在しない香川県では、古代から水不足に悩まされてきました。その痕跡がわかるのが、香川県高松市伏石町にある『居石遺跡(おりいしいせき)』です。古代の川跡に『仿製鏡(ほうせいきょう)』と呼ばれる鏡が3枚、並んで置かれた状態で発掘され、古墳時代前期の人々が水への願いを込めていたのだと考えられています。仿製鏡は、他の遺跡でも溝や井戸など水辺から出土しています。さらに時代をさかのぼり、縄文時代晩期前半の大量の土器、石の斧や木材が出土しております。讃岐平野における縄文人の暮らしを知るうえでとても大事な遺跡です。
Kagawa Prefecture, where no major rivers exist, has suffered from water shortages since ancient times. Traces of this can be seen at the Oriishi Site in Fuseishi Town, Takamatsu City, Kagawa Prefecture. Three mirrors called Hoseikyo were excavated from an ancient river site and placed side by side, and it is thought that people in the early Kofun period made wishes for water. Mirrors made of hōsei have also been excavated from ditches, wells and other waterside locations at other sites. Going further back in time, large quantities of pottery, axe and wood from the first half of the Late Jomon period have been excavated. This is a very important site for understanding the life of the Jomon people in the Sanuki Plain.
居石神社
住所:香川県高松市伏石町2164-6 [Google Maps]
Oriishi shrine
Address : 2164-6 Fuseishi-cho, Takamatsu city, Kagawa pref., Japan [Google Maps]
2022/11/02撮影
居石遺跡(おりいしいせき)高松市伏石町
居石神社と居石遺跡、鹿ノ井出水等の位置概略図
<縄文時代>
縄文時代は、狩猟や採集を生活の中心としていた時代です。現在、区画整理地内で見つかっているもののうち、もっとも古い時期が縄文時代です。居石遺跡の古い川跡からは、縄文時代でももっとも新しい時期(晩期)の土器や石器そして木が見つかっています。家の跡は見つかっていませんが、きっと近くにムラがあったのでしょう。
縄文土器
居石遺跡(伏石町)出土
一番奥が深鉢(ふかばち)で、ほかは浅渋(あさばち)と呼ばれています。煤(すす)が付いていることから、煮炊きに使われていたのでしょう。
木材
居石遺跡(伏石町)出土木材を加工して、木器を作る工程がわかる資料です。①丸太を必要な長さに切り、②縦に半分に割り、③道具の形に削っていきます。③は斧の柄を作っている途中のものです。
<古墳時代>
古墳時代の遺跡は、他の時代に比べると発揚の件数は少ないです。ただし、平野縁辺の丘や山では多くの古墳が見られ、人が住んでいた集落の跡が将来見つかるかもしれません。
区画整理地内では、居石遺跡で古時代前期の水路を発掘しています。川から水路に水を取り入れる水口から、小さな鏡が3枚並んで出土しました。おそらく、水が枯れることのないように祈りをこめて置いたのでしょう。
高松市が実施した太田第2土地区画整理事業によって、新しい街並ができつつあります。この区画整理工事に先立って、高松市教育委員会は遺跡の発掘調査を行ないました。遺跡からは、さまざまなものが発見され、新しい高松市の歴史像が浮かび上がってきています。
・製鏡 居石遺跡(伏石町)出土
仿製鏡(ほうせいきょう)とは、日本国内で中国鏡をまねて作られた鏡のことである。居石遺跡出土の鏡は、左から直径5.4cm・3.6cm・2.8cmと小さいタイプである。鏡は、古墳時代においては、実用品というより祭りや機式のときに使われたと考えられています。
・土師器(はじき) 居石遺跡(伏石町)出土
鏡と一緒に出土した土器です。
高松市教育委員会が発行した「むかしの高松」第17号(2004.3発行)を編集して作成しました。(高松市教育委員会許可済)
鹿が掘った出水(ですい)・鹿ノ井
香川県高松市太田下町
1122年(保安3年)、讃岐国(さぬきのくに)は大日照り(おおひでり)にみまわれ、田や畑の作物は枯れ、飲み水にも困るようになりました。人々は幾度も神様に雨を祈りましたが、雨は一滴(ひとしずく)も降りません。
そんなある日、居石神社(おりいしじんじゃ / 伏石町)に自髪(はくはつ)、自髭(しろひげ)の見慣れない老人が現れました。村人たちがながめていると、老人は突然一匹の鹿に姿を変えました。驚く村人たちの前で急に鹿は走り出し、1本の桃の木の前で立ち止まり前足で土を掘り、どこへともなく去っていきました。鹿が土を掘ったとこ ろからはこんこんと清水が湧き出したので、村人たちは大喜びでのどを潤したと伝えられています。
湧き水は、長い間水田や地域の飲み水として利用されてきました。平成10年には「鹿の井出水」として176mが石積みに整えられ、周りには散歩が楽しめる歩道や休憩所もつくられています。湧き水は今でも太田・伏石・下多肥の水田を潤す水源のひとつとして使われています。
発掘された古墳時代(こふんじだい)の水のまつり
高松市伏石町居石遺跡(おりいしいせき)
居石(おりいし)遺跡では、むかしの人々が願いを込めたと考えられる金属で作られた鏡が見つかっています。それは、川の岸辺に近い川底から見つかった、大きさの違う3面の鏡です。
鏡は、北から大・中・小の大きさ順に50cmほどの間をあけて並べられ、川と水田とを結ぶ水路の入り口に、まるでお供えされたように置かれていました。小型の仿製鏡(ほうせいきょう / 日本で作られた鏡)であるこれらの鏡は、他の遺跡でも井戸のように水に関連する場所から見つかることが多く、居石遺跡の鏡も、水にまつわるまつりに使われたと考えられます。銅鏡の見つかった川底からは、一緒に古墳時代初め頃の土器が見つかっています。
高松平野でも弥生時代に米作りが始まったことがわかっていますが、水が足りないと米は育ちません。当時、貴重であった鏡をお供えし、米作りに必要な水がなくなることのないようにと願う、高松平野に生きたむかしの人々の声が聞こえてくるようです。生居石遺跡の報告文を下記のURLにて読むことができます。
(印刷本は県、市立図館にあります。)
http://sitereports.nabunken.go.jp/11220
発掘された鏡3面
居石神社
住所:香川県高松市伏石町2164-6 [Google Maps]
Oriishi shrine
Address : 2164-6 Fuseishi-cho, Takamatsu city, Kagawa pref., Japan [Google Maps]
遺跡名:居石遺跡(おりいしいせき)
時代:縄文時代晩期##古墳時代前期
町名:香川県高松市伏石町
トピックス:水確保への願い居石遺跡では、古墳時代前期の人々が願いを込めた鏡が出土した。それは、旧河道底の岸辺近くから出土したほう製鏡と呼ばれる鏡である。鏡は、旧河道からのびる溝の取水口に、大きさの違う3面が等間隔で並べておかれていた。このほう製鏡は、他の遺跡でも、溝や井戸といった水に関連する場所から出土している例が報告されている。居石遺跡のほう製鏡からも、水が尽きることのないようにと願う、むかしの人々の声が聴こえてくるようである。最後に、時代はさかのぼるが、旧河道底より縄文時代晩期前半の土器が大量に出土している。これらの土器は、高松平野の縄文土器を研究するうえで欠かせない資料となっている。さらに、いっしょに出土した斧未製品と分割された木材は、縄文人がどのように木材から製品を作ったのかをわれわれに教えてくれている。
居石遺跡内には香東川に起因する旧河道が存在する。遺跡の西方において鏡三面が出土した。古墳時代初頭の導製鏡である。水路取りつけ部分より集中的に出上していることから水に係る祭祀と考えている。この居石遺跡の東端からは縄文時代晩期中頃の上器が出上している。凸帯文以前の土器で高松平野でまとまって出土した初めての事例である。
弥生時代小形傍製鏡の儀鏡化について
高倉洋彰(西南学院大学)居石遺跡出土の傍製鏡
香川県高松市居石遺跡から出土した遺物のなかでことに興味がもたれる資料に、調査区西側を流れる幅25m、深さ2mの規模をもつ自然河川の西岸川底から検出された、3面の銅鏡がある。3面は北から大(珠文鏡)・中(重圏文鏡)・小(素文鏡)の順に50cmほどの間隔をもって検出された。河川と水田とを結ぶ湛漑用水路の取排水口に当たる出土の位置と、廃棄というよりも意識的に置かれたことを考えさせる出土の状況からみて、水にまつわる祭祀に用いられたとみられるからである。
近年、祭祀に用いられたと考えられる極小形の銅鏡の例が増えている。そこでその好例である居石遺跡出土の銅鏡の特徴を述べ、各地の類例を点検して、改めて性格を考察してみることにする。
まず大きさの順に3面の銅鏡の特徴をみておこう。
・珠支鏡:最も大きい鏡で、面径5。35cmをはかる。鉦部での厚さ0。6cm。鏡背の文様は面径のわりにはlcmと幅広につくられた平縁が特徴的で、これも特徴的な太めの鉦に向かって直行櫛歯文帯・珠文帯をめぐらせている。鉦には鉦座や周圏を欠き、頂部を擦ったようにして仕上げている。一部に銅銹がみられるものの、残存状況はきわめて良い。
・重圏文鏡:面径3.55cmで珠文鏡よりもかなり小さいが、厚さは変らず、鉦の大きさが目立つ鏡である。周縁端から鉦に向かってほぼ平坦につくられているが、端部をやゃ厚くして縁部を意識させている。背文は鉦をめぐる1圏のみで、これによって内外2区に分けている。1圏のみだが重圏文の省略形として重圏文鏡に分類しておく。鉦の頂部はやはりわずかに擦られている。圏線の内側に赤錆が付着しているが、鏡そのものの残りは良い。
・素文鏡:3面中最も小さな例で、面径2、75cmの小鏡である。厚さも0.45cmと薄くなっている。鏡背には円板に鉦が付くのみで、縁部の表現を含めて一切の文様を欠く、素文鏡である。鏡の残りは良いが、鏡背に銅銹が付着している。
以上のように、3面の銅鏡は5.35~2.75cmの小鏡であり、鏡背の文様構成や銅質などからみて、筆者が弥生時代小形傍製鏡として分類する鏡のうち櫛歯文鏡。重圏文鏡・無文(素文)鏡の一群に属する(高倉1972・85)。弥生時代小形傍製鏡には珠文を主文にする例はないが、たとえば鳥取県長瀬高浜遺跡の櫛歯文鏡のように櫛歯文の内側に珠文をめぐらすことがあり、それが珠文帯として完成している居石遺跡の珠文鏡は櫛歯文鏡の亜種としてとらえられる。このような鏡そのものの特徴からすれば、居石遺跡出土鏡は弥生時代小形傍製鏡の最終段階にあり、実際の鋳造開始は古墳時代にはいつてからのものであるとみられる。
高松市居石遺跡出土木材の樹種
鈴木三男(金沢大学教養部生物学)
能城修―(農林水産省森林総合研究所)香川県高松市の居石遺跡から出上した木製品45点の樹種を調査した。木製品は縄文時代晩期の加工材と弥生末以降古代を中心とした時期の様々な製品である。これらの資料から剃刀刃を用い、徒手で横断、接線、放射の3断面の切片を作り、ガムクロラールで封入してプレパラートとし、光学顕微鏡で観察、同定した。以下に同定された樹種の同定の根拠を示し、その顕微鏡写真を写真1-10に、また同定結果の一覧を表1に示した。これら観察に用いたプレパラートは東北大学理学部植物分類学講座に保管されている。
居石遺跡の花粉化石
鈴木、茂(パレオ。ラボ)、一般回道11号高松東道路建設工事にともない、建設予定地に沿って平成元年より発掘調査、が行われ、旧河道や水田跡などが検出されている。今回花粉分析を行った居石遺跡(高松市伏、石町)の東側に所在する谷・松ノ木遺跡~谷・長池遺跡で検出された旧河道の河床部からは弥、生時代の大量の上器群が出土し、また、弥生時代前期から13世紀にかけて4面の水田層も確、認されている1)。、他の遺跡からも弥生時代や古墳時代の旧河道や水田層が検出され、同時期の、集落跡も出土している。このように、少なくともこれら遺跡周辺においては、縄文時代晩期あ、るいは弥生時代以降、水田稲作など人間活動が活発となり、それにより周辺の植生は大きな影、響をうけたことが予想される。
居石遺跡においてもこの国道建設工事の一環で行われた発掘調査で、旧河道や、その川底よ、り布留式土器などが検出され、また、すぐ東側の支流の川底からは縄文時代晩期前半の原下層、式上器が出土している。こうした出土遺物から居石遺跡で観察される各土層については時代、設定がなされており、これらの土層より採取した試料について花粉分析を行い、各時代の古植、生について考察し、居石遺跡周辺における縄文時代晩期以降の植生変遷について検討した。
まとめ
時代観については多少問題点もあるように思われるが、居石遺跡における縄文時代晩期以降の植生変遷は以下のようであった。縄文時代晩期から古墳時代前期の頃、遺跡周辺丘陵部や微高地では照葉樹林や落葉広葉樹林が優勢であり、旧河道内などの低地部はハンノキ属湿地林が形成されていた。その後、B地点では水田稲作により、また、G地点では土地条件の悪化により、低地部のハンノキ属湿地林は縮小した。周辺丘陵部の森林植生は照葉樹林が優勢であり、ツガ属やモミ属などの針葉樹類も増加した。時代としてはB地点が古墳時代後期から古代、G地点力窮電文時代晩期と考えられている。
B地点では同じく古墳時代後期から古代の頃、G地点力光電文時代晩期から古代と考えられている頃になると、水田稲作がさらに盛んに行われるようになり、ハンノキ属はわずかにみられるだけとなった。周辺の森林植生は、照葉樹林が次第に縮小し、代わってニヨウマツ類やスギ、ヒノキ類などの針葉樹類が分布を拡大した。中世から近世では、引き続き水田稲作が行われ、ソバやアブラナ類の栽培も予想される。また、周辺の森林は大きく破壊され、みられるのはニヨウマツ類だけといっても過言ではない状況となっていった。
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