皇室御用達の石を見に由良山へ – The stone of “Mt. Yurayama” is used for garden of the Imperial Palace

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由良石(ゆらいし)は香川県高松市の由良山で採石される安山岩です。石質は柔らかく加工しやすく石畳にすると足への負担がすくないことから、1966年に皇居東庭(宮殿前広場)の敷石に採用されました。由良石はその他にも、帝国ホテル・名古屋市庁舎・静岡県三嶋大社・高松中央公園など使われています。そんな由良山に登ってきました。

2020年5月撮影


清水神社。清水神社境内にある手洗い石には、「元文二年江戸中期頃」と記されていることから由良石の採掘は江戸初期頃と推定されます。


由良太子堂の石仏。


東登山口から山頂を目指します。


ロープをつたって登ります。


120.3m。気軽に山頂まで登ることができます。


山頂。昭和51年の豪雨の際に岩石が落下したときの記録が彫られています。



地元の方たちにとっても日常の散歩道になっています。


山の上から見ると採石場跡に水が溜まっているのがわかります。


数ある讃岐平野の山の中でも、くっきりと山の断面をみることができる山でもあります。


山頂からみた屋島


女木島・男木島がみえます。


山頂から見える風景の案内板


藤の花


屋島


記帳ノート


西側の登山口から降ります。


蔓日々草(ツルニチニチソウ)


さっきまでいた山頂展望台をすぐしたの採石場跡から見上げてみる。


すごい迫力があります。


下に池がみえる。ちょっと怖い。


石仏。手をあわせる。


由良山防空壕跡。由良山の東側には旧陸軍林飛行場があったため、爆撃から逃れたり機材を隠す防空壕がつくられました。


西側の登山道は緩やかな道になっています。


採石場跡


由良石は柱状節理の雲母安山岩で、淡い茶と青色からなっていて、加工の容易だったため江戸時代には墓石や石灯籠などに使われていました。清水神社の『玉取りの龍』は、江戸時代後期の名工・内伝秀蔵の作品と伝わっています。


ノミの跡。加工技術の進歩と共に、昭和初期の販路は全国に拡大され、一大地場産業として栄えました。その後、戦争による中断を経て、戦後の復興期には記帳な建設資材として広く利用されました。


再び、山は活気を取り戻し、連日発破の轟音、砕削機の騒音の時代が続いた。そんな好景気のさなか、1966年には皇居東庭の敷石として全国より厳選・採用されました。戦後約40年間の採掘量は由良石の全採掘量の実に90%に達しました。


1980年代より土木工事の近代化、自然保護帰省の強化、特に貿易の自由化により300年に渡り時代の要求に応えてきた由良石でしたが20世紀の終わりとともに、その歴史を閉じることになりました。


土俵場の跡


マップ

2015年11月撮影

北側からみた由良山。山肌が崩れて地層が見えています。


標高120m。近くでみるとこんなかんじ。由良山。


山の案内図。周辺には、由良角力土俵跡、石切場跡、防空壕跡など歴史を感じます。
せっかくだから登ってみよう。その前に、麓の清水神社でご挨拶。


途中、採石場跡が池になってます。鳩が鳴いてる。不思議な雰囲気。


由良山の採石は江戸初期頃から。由良石は柱状節理の雲母安山岩、赤と青が混ざっているのが特徴。
加工がしやすく江戸時代以降の墓石や石灯篭に使われていたそうです
節理とは、岩石がある方向性をもって割れることです。
柱状節理(columnar joint)とは、マグマが固まるときに岩体が柱状に分離したもので、
六角柱状のものが多くみられます。


中腹からの眺め。南西にあるのは三郎池近くの日山。
1966年、由良石は皇居東庭の敷石に採用。
1980年代より300年にわたり時代の要求に答えてきたが、山に大きな傷跡を残し閉山。


中腹からでも遠くの方に女木島が見えます。


採掘現場に到着しました。写真だと全景がわからないので動画はこちら。
戦後復興の際には、日中ずっと発破が鳴り止まないほどの賑わいだったそうです。


ここから、少し急になるみたいです。


由良山120.3m、登頂!高松市街が一望できます。
左が女木島、右が屋島。


屋島アップ。奥に見えているのが豊島。


女木島、男木島もアップ。左のタワーがサンポート•シンボルタワー。


屋島と高速道路と水田と住宅街。高松の基本的な都市構成がよくわかります。


現在の由良山。南北がえぐれているのがよくわかります。(GoogleMapsより)


1980年度。旧高松空港があります。
山の形はえぐれているものの、砕石はもうやってないのか緑に覆われています。
昭和55年度 高松 1/10000 (国土画像閲覧システムより)


1976年。長崎の軍艦島が炭鉱閉鎖した年でもあります。山道がはっきり見えます。
昭和51年度 高松 1/8000 (国土画像閲覧システムより)


1947年9月8日、戦後まもなく米軍により撮影。高度 6706m、縮尺 1:43885。
戦時中に設置された軍用飛行場。由良山にはいまも防空壕が残されています。
この後、戦後復興時に建設資材として広く利用されたらしく、
現在の山の形とはだいぶと違うのがわかります。

香川のみどり百選(由良山)香川県

 場所:琴電水田駅から南へ徒歩約40分。
 または琴電高松築港駅から琴電バス西植田線で約30分、
 由良バス停下車すぐで清水神社付近登山口へ。

由良山は、戦国時代からの採石跡が残るなど、地域の風土や産業との関わりがあります。ここで採石された石は、美しい色合いをもち、熱にも強く加工しやすいため、皇居東庭の敷石として採用されたほどです。戦後、輸入石材の流通が主流になるまで採石活動は隆盛を極めていました。また、「竜神の鎮座する聖なる山」ともいわれ、信仰の対象だけでなく、多くの民話や伝説の舞台として、古くから地域の人々に親しまれています。
  山の頂上からはほぼ360度の見晴らしを楽しむことができ、また、山の周辺には地元の団体が設定した史跡巡りコースがあり、由良角力土俵跡、石切場の跡、防空壕跡、洞窟などを巡ることができます。

参考:香川のみどり百選(由良山)

香川大学工学部 長谷川研究室 – PDF

由良山と由良石
由良石は、高松平野南部の由良山から産する讃岐層群の黒雲母デイサイトで、その加工の容易さから江戸時代以降、墓石や石灯籠などに加工されていました。加工技術の進歩とともに昭和初期には販路が全国に展開され、戦後の復興期には建設資材として大量に採掘されました。1966 年には皇居東庭の敷石に採用されましたが、1980 年以降輸入石材との価格競争に敗れ、20 世紀の終わりとともに約 300 年の歴史に幕を閉じました。由良石の歴史を記録した石碑が北麓にあります。採石場が閉鎖されたため、皇居東庭の敷石は撤去され、再生擬岩モルタルブロックに置き換えられています。

石のこころ香川の銘石

高松市由良町にある由良山の全山で採石せれている由良石。約400年前、 由良山上に城を築いたとき、由良石を使ったのが採掘の始まりといわれています。 江戸時代の終わり頃には、由良石を使った製品の種類も増え、墓石やお寺の灯籠などが盛んに作られようになりました。 由良石で作られた灯籠には苔がよく着くということで喜ばれています。また敷石(貼石)は、ソフトな色彩で、とくに皇居東庭(宮殿広場)は有名です。

由良石は、安山岩でも軟らかな黒雲母安山岩に分類されます。六角柱状の節理で、見た目には砂岩のようにも見え、淡紅と淡緑の二種類あります。 黒雲母の並び方にそって割れやすく軟らかでノミがよく立つことから加工しやすいのが特徴です。また由良石は熱に強く、広島が原爆の被害にあったとき 、その強い熱で人の姿が石に焼き付けられたそうです。その様は、今も訪れる人の涙を誘っています。

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2 Comments

  1. 拝見しました。由良山山頂から瀬戸内海を臨む眺めいいですね。屋島の形の理由、昔聞いたような・・・QT @yousakana: 特徴的な地形ですよね。〜どういう過程でこんな形になったのか気になります。由良山についてブログ〜屋島の他の写真も〜 http://bit.ly/bLlj0H

  2. RT @yousakana: 1947年戦後まもなく米軍により撮影された高松の航空写真を発見。記事に追加しました。 QT 由良山のぼる。戦国・江戸・戦後復興の産業遺産 http://bit.ly/bLlj0H

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