日本最大級の農業用ため池「満濃池(まんのういけ)」で、毎年6月15日に水門を開けて下流に水を送る「ゆる抜き」が行われます。かつては「ゆる」と呼ばれる木製の栓を抜いて水を流したことから、いまも「ゆる抜き」と呼ばれています。貯水量1,540万tから、最大毎秒5tの水が流れ、香川県内2市3町、約3000haの田畑を潤します。
On 15 June every year, the Mannoike Pond, one of the largest agricultural reservoirs in Japan, opens its sluice gates to allow water to flow downstream, known as ‘yuru-nuki’. It is still called ‘yuru-nuki’ because in the past, a wooden plug called a ‘yuru’ was pulled out to allow the water to flow. From the 15.4 million tonnes of water stored in the reservoir, a maximum of 5 tonnes of water flows per second and enriches fields of approximately 3,000 ha in two cities and three towns in Kagawa Prefecture.
満濃池
日程:ゆる抜き 毎年6/15
場所:香川県仲多度郡まんのう町神野 [Google Maps]
大きさ:周囲約20km、貯水量1,540万t、水深約22m
指定:国の名勝(2019年)、環境省・日本の音風景100選、世界かんがい施設遺産(2016年四国初)
2024/06/15
取水塔の排水用ハンドルを回すと水門が開いて、毎秒5tの水が流れます。
八大龍王
満濃池樋門(まんのういけひもん)。国の登録有形文化財。日本最大級の農業用ため池である満濃池の底樋隧道(そこひずいどう)とその出口である。香川県さぬき市大川町(おおかわちょう)弥勒池(みろくいけ)の石穴掘削(せっけつくっさく)で信望を得た軒原庄蔵(のきはらしょうぞう)が、安政(あんせい)の地震で決壊した満濃池堰堤(えんてい)下の石造底樋(せきぞうそこひ)に代えて建設した。明治2年に着手、翌3年に貫通した。底樋の抗口(こうこう)の周囲には五角形の迫石(はくせき)を用い、石造のコーニス・袖壁(そでかべ)・柱頭付端柱(ちゅうとうつきたんちゅう)で抗門(こうもん)を飾る。樋門は間口3.5m、高さ4.2mで、底樋管(そこひかん)の全長は197mである。国の指定・登録文化財 | 町内の指定・登録文化財 | くらしの情報 | まんのう町
滝
金倉川
香川県西部を流れる金倉川(かなくらがわ)の上流域に所在し,古代以来の巨大な堰堤(えんてい)の構築によって形成された広大なため池で,流域の地勢や遥かに遠望する山並みとともに優れた風致景観を呈する。近世から近代を通じて広く親しまれてきた名所。
歴史
701年-704年頃(大宝年間) 讃岐国の国守 道守朝臣が創築。
818年(弘仁9年) 洪水による堤防決壊。
821年(弘仁12年) 朝廷の築池使 路真人浜継が派遣され復旧に着手するも工事は難航。
821年(弘仁12年) 空海が築池別当として派遣され、約3ヵ月後改修完了。その後も決壊、復旧を繰り返す。
1184年(元暦元年) この年の決壊後、寛永8年の改修まで復旧されず、池跡には民家、田畑が作られ、「池内村」となる。
1628年(寛永5年) 讃岐国領主 生駒高俊の命により普請奉行 西嶋八兵衛、改修着手。
ユル抜き
初夏の風物詩「満濃池のユル抜き」から満濃平野の田植えが始まる たけなわの春が過ぎ、野山の緑が色を濃くした六月十三日、満濃池恒例の「ユル抜き」が行われる。 藍色の水をたたえた池の「ユル」が抜かれると、待っていたかのように出口を求めた水が一斉にほとばしり出る。 “満濃抜いたら牛馬離すな” こんな言葉が満濃池の水掛かりの村々に言い伝えられている。「ユル抜き」が終わると始まる田植えのために、牛や馬はなくてはならない働き手だったのだろう。 かつて「ユル抜き」は、夏至の三日前に行われていたそうだが、昭和三十年ごろから始まった水稲の早期栽培で六月十五日に変わり、今は六月十三日が「ユル抜き」の日(※)とされている。 現在も「ユル抜き」には大勢の見物客が訪れ、堤の上は人々で埋め尽くされるが、昔は今以上の賑々しさであったようだ。 取水塔が設置される大正三年以前の「ユル抜き」は豪快なものだったという。赤や青の褌姿の若者が竪樋に五メートル程の檜の棒を差し込み、水利組合長の打ち振る御幣と“満濃のユル抜き どっとせーい”の音頭に合わせた威勢のよいかけ声とともに、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、少しずつ筆木を抜き上げてゆく。そんな様子を息を詰めて見つめる人々。「ユル抜き」はこの地方の初夏の風物詩であり、歳時記でもあった。 出典:満濃池史およそ千三百年の歴史ある空海ゆかりの命の水
灌漑用の溜池として日本一を誇る満濃池は、「萬農池後碑文」によると大宝年間(701年~704年)に讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)の創築と伝えられています。しかし弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使路真人浜継(ちくちしみちのまひとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、技術的困難と人手不足によって改修がならず、国守清原夏野の発議により、弘仁12年(821年)空海が築池別当として派遣されました。空海が郷土入りをすると人々は続々と集まり人手不足は解消し、唐で学んだ土木学を生かして、わずか3ヵ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。朝廷は空海の功を賞して富寿神宝2万を与え、空海はこれによって神野寺を池の畔に創建しました。戦後の混乱期を経てついに完成した満濃池
空海の築いた満濃池は、その後何度も決壊と修築を繰り返しましたが、元暦元年(1184年)の洪水の決壊後は、鎌倉、戦国の戦乱期もあり、放置されたままとなりました。その後約450年を経た寛永2年(1625年)生駒讃岐守は、家臣であり土木工事の名人である西嶋八兵衛に修復を命じ、寛永8年(1631年)に完成し、33郡44ケ村の田を潤しました。その後も、安政元年(1854年)の大地震で再び破堤し、高松藩執政松崎渋右衛門の支援のもと、榎井村の長谷川佐太郎らの尽力によって明治3年(1870年)に復旧工事が完成しました。この後、明治38、9年に堤防を3尺(0.87m)かさ上げ、大正3年(1914年)には全ての樋をコンクリートや花こう岩に替え、煉瓦造りの配水塔も設けられました。しかし灌漑用水としての水不足は続き、昭和2年に5尺(1.51m)のかさ上げ工事を行い、昭和16年(1942年)から6メートルという大規模なかさ上げ工事にかかりました。その後、第二次世界大戦にと時代は混乱期を迎え、昭和19年には工事が中止、戦後21年から再開、昭和34年(1959年)についに完成し、貯水量1,540万トンという現在の満濃池の規模となったのです。
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