十日戎(とおかえびす)つながりで、香川県高松市木太町にある夷(えびす)神社にも訪問してみました。現在の高松市の海岸線、詰田川の河口から南に3kmに位置し、ずいぶん内陸部なのに、漁師の大漁祈願がされる恵比寿様を祀った神社があるのは、ここがかつての海岸線であったからです。
さらにここから少し南にいくと「白山神社古墳(はくさんじんじゃこふん)」があり、かつては海岸線に近いところに海側からこの古墳を見ていたのであろうと想像できます。
私の父方の曽祖父がこの地の農家であったそうなので、ひょっとしたら私のご先祖さんも辿っていったらこのあたりの海岸線から屋島や五剣山のみえる風景を眺めていたのかもしれないなとか妄想していました。
In connection with Toka Ebisu, we also visited the Ebisu Shrine in Kida-cho, Takamatsu City, Kagawa Prefecture. The reason why this shrine dedicated to Ebisu-sama, who is prayed for by fishermen for a big catch, is because this used to be a coastline.
A little further south from here is the Hakusanjinja Kofun (Hakusan Shrine Tomb), and I can imagine that people used to look at this tumulus from the sea side, close to the coastline.
My great-grandfather on my father’s side was a farmer here, so I was imagining that my ancestors may have also been able to see Yashima and Gokenzan from the coastline here.
夷(えびす)神社
住所:香川県高松市木太町 [Google Map]
Ebisu shrine
Address : Kitacho, Takamatsu city, Kagawa pref., Japan [Google Map]
2024/01/10撮影
長尾街道の高松木太郵便局の西側にあります。
大宮女命(おおみやめのみこと)。「芸道」、「家庭円満」、「厄除」の神様。
夷神社(えびすじんじゃ)
祭神:八重事代主命(やえことしろぬしのかみ)
祭日:10月13日
この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として、蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は、蛭子宮(讃岐国名勝図会 / さぬきのくにめいしょずえ)、蛭児(えびす)の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話 おうおうやわ・讃州府誌 さんしゅうふし)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたか知らず」とあり、寛永以前は、この地は入江にて漁者も住居し蛭子宮ありて、地名を「戎(えびす)」と言う。
1637年(寛永14年)生駒藩の時、「この地以北の海を拓して新田とした」と記されている。夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。
1986年(昭和61年)に本殿を改築して、夷地区の集会場としても使われている。
1998年(平成10年)5月木太地区文化協会
詰田川。400年前の海岸線は少し北側。
1548年(天文17)頃、春日惣付近図からは、当時の春日付近は新川・春日川・詰田川は八坂神社の北を高松の方向に流れ、夷神社の場所は、干潟が広がる海岸線にあったことが分かります。
夷(えびす)神社
大宮女命(おおみやめのみこと)。「芸道」「家庭円満」の神様
400年前、海岸にあった夷(えびす)神社は、長尾街道の高松木太町にあります。「寛永以前は、この地は入江にて漁者も住居し蛭子宮ありて、地名を戎と言う。寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の海を干拓し新田とした。(案内板より)」夷神社は、かつては海岸線に位置していたことが伝承されています。 今からおよそ470年前の1548年(天文17年)頃の春日惣付近図には、春日付近の様子が描かれています。この図から当時の春日付近は新川、春日川、詰田川は八坂神社の北を高松の方向に流れ、夷神社の場所は、干潟が広がる海岸線にあったことが分かります。
木太町郷土誌
「西島八兵衛は讃岐特有の天井川改修にも意を尽くした。なかでも注目されるのは香東川の川筋付けかえ工事とこれに関連して進めた高松東部の福岡・木太・春日の新田開発である。この工事に着手したのは1630・31(寛永7・8年)頃、そして完成を見たのは1637年(寛永14年)頃と思われる。
中略
東側の川筋の下流流域から古高松地区にかけて広がっていた寄り州や湿田地帯の干拓事業を進めたのである。干拓事業は現在の御坊川下流域の洲端(すべり)地区から東の新川下流付近までを結ぶ堤防を築き、福岡・木太・春日地区に新田を開拓したもので、八兵衛が讃岐で進めたため池築造事業と共に特筆される業績の一つである。」
白山神社古墳
石室の跡。右奥にみえているのは屋島。
白山神社古墳
・竪穴式石榔に赤色顔料
・板状安山岩を使用した丁寧な長手積みや規模のわりには多量の粘上の使用がみられる
・古墳時代中期(5世紀前半)の古墳(さらに古い可能性もある)
神内城跡(じんないじょうあと)。
八坂神社
古・高松湾
古・高松湾。イラスト(香川県立歴史博物館2007)
白山神社古墳の竪穴式石室
干拓の概要(木太町郷土史を作る会 1995)
・夷神社:長尾街道に面した字「夷」に位置する神社。『全讃史』には、何年に創建されたのか定かではないが、寛永以前はこの地は入江で漁業者が住居し、夷神社があること、寛永一四(一六三七)年にこの地以北を干拓したことが記されています。神社には片手に鯛を抱えた恵比寿像が祀られています。干拓以前の、漁労が可能であった沿岸部の痕跡として現在も維持されています。
・白山神社古墳:白山神社古墳は木太南小学校の東側に位置する古墳で、現在は古墳の上に白山神社が祀られています。高松市教育委員会の発掘調査で、直径十一~十二mの円墳であることが分かりました。また、盗掘により副葬品は残っていませんでしたが、埋葬施設(竪穴式石室)が確認されました。白山神社古墳は標高二~三m程度の低地に位置します。古・高松湾の沿岸部を行き交う人々に対して見せるモニュメントとして築かれたものと考えられます。
・八坂神社:八坂神社は木太町本村に所在する神社で、明治時代までは入江神社と呼ばれる、木田郡の大社でした。元禄六(一六九三)別当寺である真福寺の僧龍宣が記した「入江神社記」によると、正暦元(九九〇)年、尾張から牛頭天王が甕とともに楠のいかだに乗って漂着し、神の現れた地として祠を建てたのが八坂神社の始まりとされます。当地がかつて古・高松湾に面した入江であったことを示す伝承です。
・木太町の由来:木太という地名がはじめて確認できるのは、延長年間(九二三~九三一)の『和名抄』で、讃岐国山田郡の一郷として「喜多」と記されます。地名の由来として、八坂神社の縁起に、牛頭天王が乗ってきた楠のいかだが芽を出し、瑞兆として「喜多」としていたが、そのうち木が太く育ったので「木太」とした、という記載があります。また、屋嶋城の城田であったことが由来であるとする説もあります。
サンマイアバ(エビス)。愛媛県宇和島市津島町北灘。漁網の網霊を信仰するオオダマ信仰がイワシ網漁にあります。漁網の真ん中の3枚の浮子(あば)を休漁の時に外して、神棚に祀ったり、宇和島市の和霊神社(われいじんじゃ)に持参して祈祷してもらい、大漁を祈願しました。「浮子(あば)」と呼ばれる網の浮き部分に突起があるのは、エビスさんの烏帽子の形状を模したものと聞きました。
イワシカケビキ網(船曳漁)の中心に装着された浮きで、漁場の権利を行使するための浮き標として海面に浮かべられることもありました。
ヨベッサンとダイコクサン。伊吹島(いぶきじま/香川県観音寺町)。大漁祈願のため、タイシバリ網船に祀った土製のエビス・ダイコク像です。大黒さんは五穀豊穣の農業の神さま、恵比寿さんは大漁追福の漁業の神さま。
参考:建築家・山本忠司設計、瀬戸内海歴史民俗資料館 – “Seto Inland Sea Folk History Museum” designed by Architect Tadashi Yamamoto | 物語を届けるしごと
えびす(ゑびす)
1)日本の神。七福神の一柱。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的。本項で詳述。また、初春の祝福芸として、えびす人形を舞わせてみせた大道芸やその芸人のことも「恵比須(恵比須回し)」と呼んだ。
2)外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の一柱。本項で詳述。
3)神格化された漁業の神としてのクジラのこと。古くは勇魚(いさな)ともいい、クジラを含む大きな魚全般をさした。本項で詳述。
4)寄り神。海からたどり着いたクジラを含む、漂着物を信仰したもの。寄り神信仰や漂着神ともいう。本項で詳述。えびすは日本の神で、現在では七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインドまたは中国由来)の福の神である。古くから漁業の神でもあり、後に留守神、さらには商いの神ともされた。夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須、恵美寿などとも表記し、えびっさん、えべっさん、おべっさんなどとも呼称される。
「えびす」という神は複数あり、イザナギ、イザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)とされることが多い。少数であるが、えびすを少彦名神や彦火火出見尊とすることもある。また、外来の神とされることもあり、「えびす」を「戎」や「夷」と書くことは、中央政府が地方の民や東国の者を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様で、異邦の者を意味する。このように多種多様の側面があるため、えびすを祀る神社でも祭神が異なることがある。
民間習俗
海神
えびすの本来の神格は人々の前にときたま現れる外来物に対する信仰であり、海の向こうからやってくる海神である。下記の漁業神、寄り神(漂着神)の他に純然たる水の神としての信仰も存在する。漁業神
恵比寿自体が大漁旗の図版として使われるほどポピュラーな漁業神であるが、日本各地の漁村ではイルカやクジラやジンベエザメなど(これらをまとめてクジラの意味である「いさな」と呼ぶ)を「えびす」とも呼んで、現在でも漁業神として祀る地域が多数ある。クジラやジンベイザメなどの海洋生物が出現すると豊漁をもたらすという考えからえびすと呼ばれ、漁業神とされる。実際にクジラなどが出現するとカツオなどの漁獲対象魚も一緒に出現する相関関係がある。漁業に使う網の浮きを正月などに祀る地域があるが、四国の宇和島周辺や隠岐などでは、その浮きのことを「えびすあば」(あばとは浮きのこと)と呼んでおり、えびすが漁業神であることを示す好例である。
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