【1888年】12月3日は香川県の独立記念日 – December 3rd is Independence Day of Kagawa pref.

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今から135年前、1888年(明治21年)12月3日、香川県が愛媛県から分離独立しました。この香川県の独立を最後に、日本全国がいまと同じ47都道府県となりました。つまり香川県は最も小さい県であり、最も新しい県でもあります。

沖縄県は、1972年に返還される93年前には沖縄県という名称は存在していました。
北海道は、1946年9月27日の府県制の改正で、北海道庁から北海道に移行し、都府県庁から都道府県になりました。

1879年3月27日 明治政府が琉球藩を廃して沖縄県を設置
1888年12月3日 愛媛県から分離、香川県誕生
1946年9月27日 北海道庁から北海道に移行
1972年5月15日 沖縄県返還

記念に香川県の写真をいくつかピックアップして掲載しておきます。香川県関連の物語を届けるしごとの記事はこちら。

Kagawa was formerly known as Sanuki Province. For a brief period between August 1876 and December 1888, Kagawa was made a part of Ehime Prefecture. Kagawa prefecture was born in December 3rd 1888.

中野武営 – Wikipedia

中野 武営(なかの たけなか/通称:なかの ぶえい)、1848年2月7日1918年10月8日)は、明治・大正時代の官僚出身政治家、実業家。

香川県『独立の父』
辞職後は、大隈重信による立憲改進党結成に参加した。そして、同じく下野した河野敏鎌や北畠治房とともに東京で弁護士事務所「修進社」を設立。立憲改進党時代は、政府による弾圧により大隈重信や河野敏鎌などが脱党し、解党の危機に瀕したが、中野は断固として党活動の継続を主張し、尾崎行雄や箕浦勝人、角田真平らともに七名の事務員の一人として党運営の中枢に残った。

1887年(明治20年)、愛媛県会議員となり、県会で「十州塩田組合に関する布達廃止の建議」を提案し、この建議を受けた農商務省は瀬戸内沿岸の十州における塩田の採塩制限を直ちに中止し、競争力のあった讃岐が年中採塩できるようになった。このような実力も認められ、翌1888年(明治21年)に県会議長に選任された。議長在任中、愛媛県から讃岐地方を香川県として独立させることに奔走。

香川県の分県運動はそれまでにもたびたび盛り上がったが、この時は中野武営を中心に、従兄の小田知周(おだ ともたか)、菊池武凞、片山高義ら旧藩士・改進党系が主導した。中野は、地元と連絡をとりながら東京で密に政府要人に働きかけるなど、分県運動の中心となってに奔走し、第3次香川県の設置を成功させた。この功により「香川県『独立の父』」と呼ばれる。

香川県|キッズページ – 香川の由来

この「讃岐」という名前は、「狭貫」、「佐貫」などとも書き、続日本紀(しょくにほんぎ)では「紗抜」、播磨国風土記(はりまのくにふどき)では「讃芸」、正倉院文書では「讃岐」といろいろ表現されていますが、古事記、万葉集、古語拾遺(こごしゅうい)などによれば「讃岐」が一般的で、「讃(さん)」はほめる、「岐(き)」は山の姿であることから、「讃岐」は、その美しい風土をたたえて付けられた名前ではないかと考えられます。

江戸時代には、いくつかの藩がありましたが、明治4(1871)年に、廃藩置県で高松県と丸亀県ができました。 そのあと、おとなりの徳島県や愛媛県とひっついたり、はなれたりしながら、明治21(1888)年12月3日に今の香川県が生まれました。

ちなみに、「香川」(かがわ)という名前は、「香の川」から来ているといわれています。

むかし、香川の奥山に、樺川(樺河)というところがあり、その地に「樺の木」が生えていたそうです。 そこから流れる川(今の香東川 という説があります)の水に樺のいい香りが乗って流れていたことから、「香川」という呼び名が広まったそうです。

「香川」の名前の由来は、江戸時代後期の「全讃史」※という本に書かれています。

※「全讃史」は、讃岐の歴史が書いてある本です。1828年に中山 城山(なかやま じょうざん)という人がまとめました。

香川県発足 – Wikipedia
徳川時代の讃岐国には、高松藩、丸亀藩、多度津藩の3藩と、徳川幕府の直轄地である天領、津山藩の飛地が分立していた。

1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県により、高松藩は高松県、丸亀藩は丸亀県、多度津藩と天領は倉敷県、津山藩の飛地はそのまま津山県となった。

その直後に、倉敷県の管轄地が丸亀県へと移された後に、同年に高松県と丸亀県が合併されて香川県(1873年2月19日以前)が設置され、1872年(明治5年)に小豆島西部を編入して、現在の香川県(1888年12月3日以後)と同じ管轄範囲(行政区画は1888年12月3日に分割)となる。

しかし、1873年2月20日には名東県(後の徳島県)に編入されるも、2年後の1875年9月5日に香川県(1875年9月5日〜1876年8月20日)として分離されたが、翌年1876年8月21日には愛媛県に編入された。度重なる編入の度に、地理的要因や地域文化や住民意識などで食い違いが発生し、香川県として単独の県の設置を望む声が再び高まり、12年後の1888年12月3日に香川県が復活して、現在に至る。なお、1888年の香川県の分離独立を最後に、東京府と東京市の合併(1943年7月1日)や、第二次世界大戦後にアメリカの統治下に置かれた沖縄県の日本再編入(1972年5月15日)などの特殊な事例を除いて、新しい県の設置はなく、この1888年12月3日に現在の47都道府県体制がほぼ確立したことになる。

「香川県」の名称は、高松市が所属していた香川郡から取ったもので、いわば郡名を県名にしたものである。

明治から大正にかけて香川県で鉄道敷設競争が起こり、讃岐鉄道(のちの国鉄)、琴平参宮電鉄、琴平電鉄(後の高松琴平電気鉄道)、琴平急行電鉄の4社が高松 – 丸亀 – 琴平間で競って鉄道を敷設した。

中野武営(なかの ぶえい) – Wikipedia

香川県『独立の父』

1887年(明治20年)、愛媛県会議員となり、県会で「十州塩田組合に関する布達廃止の建議」を提案し、この建議を受けた農商務省は瀬戸内沿岸の十州における塩田の採塩制限を直ちに中止し、競争力のあった讃岐が年中採塩できるようになった。このような実力も認められ、翌1888年(明治21年)に県議会議長に選任された。議長在任中、愛媛県から讃岐地方を香川県として分県(再置)させることに奔走。

香川県の分県運動はそれまでにもたびたび盛り上がったが、この時は中野武営を中心に、従兄の小田知周(おだ ともたか)、菊池武凞、片山高義ら旧藩士・改進党系が主導した。中野は、地元と連絡をとりながら東京で密に政府要人に働きかけるなど、分県運動の中心となってに奔走し、これを成功させた。この功により「香川県『独立の父』」と呼ばれている。

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2 Comments

  1. コウザイ トシカズ

    香川県独立の父『中野武営』翁.の事が紹介されていません。ご調査の上掲載を希望します。TK
    (全国的に活躍の大偉人)と聞いております。宜しくお願いします。

    • yousakana

      ご提案ありがとうございます!香川県『独立の父』、中野武営さんのこと、Wikipediaの記事の引用ですが、取り急ぎ追記させていただきました。

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