遺産分けでもらった“ガラクタ”が、まさかの歴史的お宝…!

テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』で、江戸時代の発明家・久米通賢が作った幻の鉄砲「輪燧佩銃」2丁が登場。依頼人の評価額100万円に対し、鑑定結果はなんと1600万円。鑑定人も「30年以上で初めて見る最高の品」と絶賛し、「その値段で買いたい」と申し出るほどでした。久米通賢といえば、満濃池の改修などでも知られる讃岐の偉人。そんな人物が作った幻の銃が、倉庫の中からひょっこり現れるとは…歴史のロマンを感じます。

久米通賢は、江戸後期の讃岐に生きた発明家・技術者で、「東洋のエジソン」とも称される人物です。日本初のマッチを発明したほか、測量器具「地平儀」を考案し、伊能忠敬が高松藩に来る2年前には自ら領内の地図を作成していました。また1822年には藩主に進言し、約194万人もの労働力を動員して坂出沖に大規模な塩田を造成するなど、農業・土木・産業の分野で讃岐の発展に大きな足跡を残した人物として知られます。

開運!なんでも鑑定団江戸時代の天才発明家が作った<激レア鉄砲> – Tver

久米通賢作 鉄砲2丁
鑑定依頼人:早瀬祥人さん
鑑定士:澤田平
ジャンル:甲冑・古式銃
本人評価額:¥ 1,000,000
エピソード:20年程前 両親が他界し遺産分けをした際、誰も見向きもしなかったガラクタ同然の古い箱を受け継いだ。長年放ったらかしにしていたが、最近になってふと箱を見たところ、名前が書いてあったため、念のためネットで調べると、なんと江戸時代の天才発明家だったためビックリ!

四国村に保存されている建物、久米通賢(くめつうけん)邸。伊能忠敬さんよりも早く日本初の実測地図を作った人物で、讃岐の塩田開発や日本初の国産マッチの発明などでも有名です。全国的にはそれほど知られていませんがすごい人なんです。

江戸時代の発明家・学者である 久米通賢(1780–1841)は、讃岐国(現在の香川県)出身の多才な人物で、発明・測量・暦学・洋学など幅広い分野で活躍しました。幼い頃から学問と工作に優れ、大坂で暦学者の 間重富 に学びました。高松藩の測量方として、日本初期の実測地図を作成し、後に日本地図作成を進めた 伊能忠敬 の測量にも協力しました。発明家としては火縄銃を改良した「輪燧佩銃」を製作し、日本初の国産マッチも発明しています。さらに高松藩の財政再建のため坂出に大規模な塩田を開発し、讃岐の塩産業発展に大きく貢献しました。その功績から地元では「讃岐のエジソン」「塩田の父」と称えられています。

久米通賢邸
久米通賢邸


四国中の古民家があつまっています。囲炉裏に火もはいります。


香川の切り干し大根は、タコ干し

四国村ミウゼアム
時間:9:30〜17:00
住所:香川県高松市屋島中町91 [Google Maps]
定休:火曜日(祝休日の場合は翌日)
料金:大人1,600円、大学生(学生証提示)1,000円、高校生・中学生600円、小学生以下無料
駐車:無料駐車場あり(バス専用5台、普通車200台)

SHIKOKUMURA
Opening hours: 9:30–17:00
Address: 91 Yashima Nakamachi, Takamatsu City, Kagawa Prefecture [Google Maps]
Closed: Tuesdays (or the following day if Tuesday is a public holiday)
Admission: Adults ¥1,600, University students (with valid student ID) ¥1,000, High school and junior high school students ¥600, Primary school children and younger free
Parking: Free car park available (5 spaces for buses, 200 spaces for regular vehicles)

久米通賢旧宅 | 施設一覧 | 四国村案内 | SHIKOKUMURA

久米通賢旧宅
年代:1800年代
旧所在地:香川県東かがわ市馬宿
指定区分:登録有形文化財

塩田開発の立役者が暮らした、発明が生まれる家
平賀源内と共に讃岐を代表する江戸時代の科学者・久米通賢(くめつうけん)の住宅。主屋は寄棟造(※1)・茅葺き、下屋は本瓦葺き(ほんかわらぶき)(※2)。出生地の東讃岐の引田町(ひけたちょう)馬宿(うまやど)から移築されました。通賢は坂出塩田(さかいでえんでん)を大規模なものに開発し、全国の塩の生産量の半分近くを坂出塩田が占めるまでに成長させました。讃岐が江戸時代から塩どころとして知られるようになったのは、通賢のおかげでもあったのです。

天井裏の器具発見:移築にあたって解体された母屋の天井裏からは、大砲の鋳型の原型などが発見されました。
久米通賢とは:久米通賢は江戸時代の科学者。測量術にすぐれ、軍船、大砲、撃発式鉄砲ピストルから、扇風機までをも発明しました。

四国村久米通賢先生旧宅主屋 文化遺産オンライン

香川県
江戸/1801-1900
木造平屋建、茅及び瓦葺、建築面積81㎡
香川県高松市屋島中町127

もと香川県大川郡引田町馬宿に所在した。江戸時代後期のオランダ流砲術家として知られる久米通賢の旧宅。寄棟造、茅葺の四周に本瓦葺の庇を回した「四方大蓋造り」と呼ばれる香川・徳島県に特徴的な民家の形式をもつ。

久米通賢 – Wikipedia

久米 通賢(くめ みちかた、もしくは つうけん、1780年(安永9年) – 1841年6月25日(天保12年5月7日))は、江戸時代の日本の発明家、暦学者、測量家、洋学者などである。通称は栄左衛門。 伊能忠敬よりも早く、日本初の実測地図を作った人物である。地元香川県では偉人として顕彰されており、「讃岐のエジソン」「塩田の父」などと称される。

1780年(安永9年)、讃岐国大内郡馬宿(現在の香川県東かがわ市)の農家に生まれる。幼少のころから利発で学問好きな子だったため、引田港から大坂に向かう船の舵取りも務めていた父の嘉兵衛は、大坂に行くたび通賢のために書物を買ってきていた。また、手先が器用で熊や獅子を粘土で作るのが得意だったため「獅子熊」と呼ばれていた。7歳の頃、通賢は父に連れられ大坂の町の時計店に行く機会があり、当時最先端の機器であった時計の修繕を熱心に眺めていた。そこへ別の客がやってきて店の者に時計の修繕を依頼したが、店の者は誰も手がすいていない。そこで通賢が店の道具を借りて見よう見まねで修繕をしてみたところ、時計は元の通り動くようになったため、皆大いに驚き喜んだという。

1798年(寛政10年)、大坂へ出て暦学者の間重富の門下となり、暦学・数学等を学んだ。1802年(享和2年)父・嘉兵衛が逝去したため帰郷。その後も郷里で勉学に励んだ。江戸時代も末期になると、外国船が日本近海を訪れるようになっていたため、通賢も兵法、オランダ流砲術等を学んでいる。

1806年(文化3年)、高松藩の測量方に採用され、領内の引田から西へと実地測量地図の作成に従事した。この地図は伊能図より早い讃岐国最古の実測地図である。また翌年には軍艦の設計も行っている。

1808年(文化5年)、幕府命令で日本地図を作成していた伊能忠敬一行が讃岐国を訪れ、通賢もこれに協力した。

1815年(文化12年)には従来の火縄式銃を火打ち石式に改良することに成功し、輪燧佩銃を製作している(銃の開発にあたっては、中国兵書『武備志』の火器の構造も参考にしていたとされる)。

1824年(文政7年)、このころ、財政難に陥っていた高松藩の第9代藩主松平頼恕は、通賢の多才な才能を見込んで財政再建策を頼った。通賢はこれに応えて阿野郡坂出の浜に新たな塩田を開発することを進言。

1826年(文政9年)、高松藩はこの案を採用し、通賢は普請奉行に任じられた。通賢は塩田開発の陣頭指揮を執るだけでなく、自ら率先して作業に参加したため工夫達の士気も上がり、工事ははかどった。ところが高松藩の財政難は深刻で、途中から塩田開発工事資金がとどこおるようになった。通賢は工事を完成させるため、私財を投入して工事を継続させた。この献身的な働きのおかげで1829年(文政12年)に坂出の東大浜、西大浜に入り浜式塩田がついに完成した。藩主頼恕は大いに喜び、通賢の功績を称えるため、現在も残る「阪出墾田之碑」(坂出市指定有形文化財)を建立した。この塩田完成で坂出の塩生産量は日本全体の約半分を占めるまでにいたり、高松藩の財政をうるおし、戦後に工業地域に転換されるまで塩業は讃岐国・香川県の代表的産業となった。

1836年(天保7年)、通賢は藩の職を辞し帰郷。その後も日本初の国産マッチ(雷汞マッチ)等様々なものを発明している。1841年(天保12年)死去。

高松市にある久米通賢の旧宅は有形文化財に指定されている。1924年(大正13年)、従五位を追贈された。

坂出塩田の父『久米通賢』 – 坂出市ホームページ

坂出塩田の父と慕われる稀代の科学者『久米通賢』
久米通賢とは 【1780(安永9)年~1841(天保12)年】
ここ坂出は,弥生・古墳時代の製塩土器が出土するなど,古くから塩に関係した地域でした。 そして江戸時代,「塩の町」として坂出を築きあげた人物「久米栄左衛門」が現れます。香川の地で船かじ作り職人の子として誕生,自らを「通賢」と名乗り,経世家, 砲術家として名を馳せ,蘭学,天文,測量,軍器製造などの実学にも優れた人物でした。 1824年(文政7)年,高松藩の財政は傾き人々は貧困にあえいでいるなか,通賢は藩の財政を立て直し,人々を救おうと遠浅の坂出沖に塩田を開墾することを高松藩主松平頼恕に申し出て,1826年(文政9)年坂出墾田の普請奉行となります。 坂出墾田には,藩からの約2万両の工費だけでは足らず,私財をも投じて,延べ約194万人を動員し,3年後の1829(文政12)年,東大浜・西大浜を含む約132haの塩田の開墾に成功しました。 坂出の多くの人々を救い,その功績は大いに讃えられこの地に名を残しました。