2023年に放送予定のNHK連続テレビ小説が、高知県佐川(さかわ)町出身の植物学者・牧野富太郎さんをモデルにした物語『らんまん』に決まりました。主人公の牧野富太郎さんを、俳優の神木隆之介さんが演じます。

NHK’s serial TV novel to be broadcast in 2023 is “Haru Rangman”. The main character, Tomitaro Makino, a botanist from the town of Sakawa in Kochi Prefecture, will be played by actor Ryunosuke Kamiki.

One of the 100 best cherry blossom viewing spots in Japan. Makino Park is located in the town of Sakawa, Kochi Prefecture, the hometown of botanist Tomitaro Makino.

植物学者・牧野富太郎(まきの とみたろう)さん(1862~1957年)が生まれた高知県佐川町(高知県佐川村)には、日本の桜名所100選のひとつ『牧野公園』があります。1902年(明治35年)、東京に住む牧野さんが40歳の頃、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜の苗が佐川町に贈られました。それが青源寺の土手などに植えられたのがこの場所のはじまりです。その後、1958年(昭和33)年に整備され「牧野公園」と名付けられました。

牧野富太郎さんは、1862年、高知県高岡郡佐川村に生まれ、独学で植物学を研究しました。佐川小学校の臨時教員の後、東京大学植物学教室で植物分類学を研究しました。日本中で収集した標本は40万点、植物の発見・命名は1,500種以上。日本の植物分類学の基礎を築きました。「牧野日本植物図鑑」を刊行し、植物の教育普及にも尽力しました。没後、文化勲章を受賞し、県立牧野植物園(高知市)が開園しました。

牧野公園
住所:高知県高岡郡佐川町甲2458 [Google Map]

Makino Park
Address : 2458 Sakawa town, Kochi pref., Japan [Google Map]

2021年3月27日撮影

牧野公園


まちまるごと植物園。谷麝香草(タニジャコウソウ)

桜の名所。佐川城跡(佐川町史跡)。長曾我部元親が土佐を統一した天正の初め(安土桃山時代 1573年頃)、その重臣である久武内蔵助(ひさたけ ちかなお)は松尾城の対岸に位置する古城山に城を移したといわれています。
長宗我部氏が土佐での勢力を失うと、慶長6年(1601年)、土佐の新国主山内一豊の筆頭家老、深尾重良(ふかお しげよし)がこの城に入場しました。
元和2年(1616年)、徳川幕府の一国一城令により廃城となり、佐川・斗賀野・尾川を見下ろした高北唯一の名城も遂に姿を消しました。
山麓には、「奥の土居」の古名が現在も残っており、ハルは桜の名所として有名です。

Sakawa Castle Ruin
About 1570 when Chosokabe Motochika unified Tosa (present day Kochi prefecture), Hisatake Kuranosuke (a senior vassal of the Chosokabe clan) built Sakawa Castle on thi mountain.
After the Battle of Sekigahara, Yamauchi Family ruled the Tosa domain. Fukao Shigeyoshi became the new lord of the Sakawa Castle. This castle was abolished bu the Ikkoku Ichijo Rei (Law of one castle per province) in 1616.


ミツマタ

佐川城竪堀(たてぼり)跡。

中世の城の多くは山城でした。山城は、山頂や山腹などを削って平坦にした「曲輪(くるわ)」、曲輪のまわりに土を盛り上げて固めた「土塁」、外敵からの侵入を防ぐための「堀」など山の険しい地形を利用してつくられました。

この時代の城の建物は、江戸時代の天守のような立派な建築物ではなく、掘立柱(ほったてばしら)でつくられた簡素なものでした。城主は麓につくられた「土居(どい)」と呼ばれる建物で暮らし、戦になると山城にこもって戦いました。

斜面に掘られた溝は佐川城の竪堀跡であり、この上の大岩(物見岩)の直下から始まり途中で分岐して麓まで続いていましたが、後世の開墾により途中で途切れています。

竪堀は山の斜面に上下方向に掘られた空堀で、戦の時には、横堀や堀切と組み合わせ外敵の侵入を防ぐ重要な役割を果たしました。また、斜面に複数並んでつくられた竪堀を畝状竪堀(うねじょうたてぼり)といい、佐川城の西方の尾根につくられた出城にはこの畝状竪堀が見られます。

Tatebori
Yamajiro (a fort) was built using the topography of a steep mountain throughout Japan in the Sengoku period.
Three elements of Yamajiro are “Kuruwa” (a flat place that sharpened the ground of the mountain top or the mountainside.), “Dorui” (an earthen wall) and “Hori” (a trench). Tatebori (a trench running up the side of the mountain) was built to disturb the invasion of the foreign enemy.


水仙


牧野富太郎博士のお墓


筆竜胆(フデリンドウ)


ただの切り株でさえも美しい


大岩(物見岩)


ツツジ


チェアリング

【高知】日本の桜名所100選。植物学者・牧野富太郎さんの故郷にある『牧野公園』 - [Kochi] "Makino Park", Botanist Tomitaro Makino

牧野公園
住所:高知県高岡郡佐川町甲2458 [Google Map]

Makino Park
Address : 2458 Sakawa town, Kochi pref., Japan [Google Map]

Tomitaro Makino – Wikipedia

Makino Tomitarō (April 24, 1862 – January 18, 1957) was a pioneer Japanese botanist noted for his taxonomic work. He has been called “Father of Japanese Botany”. He was one of the first Japanese botanists to work extensively on classifying Japanese plants using the system developed by Linnaeus. His research resulted in documenting 50,000 specimens, many of which are represented in his Makino’s Illustrated Flora of Japan. Despite having dropped out of grammar school, he eventually attained a Doctor of Science degree, and his birthday is remembered as Botany Day in Japan.

Tomitaro Makino was born in Sakawa, Kōchi to a prestigious sake brewer. His parents died during his early childhood, and he was raised mainly by his grandmother. Though he dropped out of school after two years, he cultivated a strong interest in English, geography, and especially in botany. In 1880, he became a teacher at the primary school in his hometown, where he published his first academic botanical paper.

In 1884, he moved to Tokyo to pursue his botanical interests at the University of Tokyo where he worked with Ryōkichi Yatabe. He married in 1890 and later had 13 children.

牧野公園 | さかわのしおり[オフィシャル]さかわ観光協会

日本の桜名所100選、高知を代表する花見どころ1902年(明治35年)、植物学者牧野富太郎先生が東京から桜ソメイヨシノの苗を送ってこられ、それを地元の有志が青源寺の土手などに植えたことに始まる。1958年(昭和33年)に公園内の町道が完成したときに「牧野公園」と称することとなった。中腹には、富太郎と田中光顕の墓がある。

牧野公園のあゆみ | まちまるごと植物園|佐川町

はじまりは「ソメイヨシノ」の苗から
牧野公園は、1920年(明治35年)、植物学者である牧野富太郎が東京より「ソメイヨシノ」の苗を佐川町に送り、その後、地元の有志たちが青源寺の土手などに植えたことにはじまります。当時はまだ「牧野公園」ではなく、「奥の土居」と呼ばれていました。 大正初期、将来の桜郷を夢に描いた町民の手によって、奥の土居をはじめとした町内のいたるところにソメイヨシノの苗木が植えられました。 大正末期から昭和10年代にかけてそれらの桜は見頃を迎え、最盛期には大人数の観桜客で賑わいました。しかし、その後の太平洋戦争により、愛情をもって育成された桜も食料増産の犠牲となり、奥の土居も開墾地とするため全ての桜が伐採されてしまいます。

「奥の土居」から「牧野公園」へ
1956年(昭和31年)、戦後荒廃した奥の土居をもう一度甦らそうと動き出したのが、商工会を中心とした地元の人々でした。1000本以上の桜苗を植え、奥の土居の桜復活に取り組み始めます。そして、同年12月には牧野富太郎博士が佐川町名誉町民となりましたが、翌、1957年(昭和32年)1月に96歳で永眠しました。またその年に佐川町が奥の土居の土地を購入、この土地は1958年(昭和33年)年に「牧野公園」と名付けられ、牧野博士の分骨が埋葬されました。さらに、遊覧道路の整備も始まり、昭和35(1960)年、ついに牧野公園が落成、昭和40年代以降には復活させた桜が再び最盛期を迎えます。1990年(平成2)年には高知を代表する桜の名所の1つとして、日本のさくら名所100選にも選ばれました。