香川〜徳島をつなぐ高速道路(四国横断自動車道)を走っていると見えてくる形の良いトンネル。これ実は、『大代古墳(おおしろこふん)』という徳島県鳴門市にある古墳です。しかも、鳴門板野古墳群として国の史跡に指定されています。2000年にオープンカット工法だった当初工事計画を変更して、古墳の下をトンネルが通るという前代未聞の景観を造り出しています。

大代古墳(おおしろこふん)は、徳島県鳴門市にある全長54m、4世紀末頃に造られた前方後円墳です。竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)に水銀朱(すいぎんしゅ)の塗られた刳抜式舟形石棺(くりぬきしきふながたせっかん)があり、香川県さぬき市津田の火山(ひやま)から産出する白色凝灰岩が使われています。棺の中からは、臼玉・管玉や鉄剣が出土しました。

As you drive along the highway connecting Takamatsu and Tokushima (Shikoku Expressway), you will see a well-shaped tunnel. This is a burial mound in Naruto City, Tokushima Prefecture, called the “Ōshiro Kofun (Ancient Burial Mounds)”. It has been designated a national historic site as the Naruto Itano Tumulus Group. The construction plan for the open-cut method was changed in 2000. A unique landscape was then created, with a tunnel passing under the tomb.

The Ōshiro Kofun, located in Naruto City, Tokushima Prefecture, is a 54-meter-long, post-anterior-round tomb built around the end of the 4th century. There is an excavated boat-shaped sarcophagus painted with mercury vermilion in a pit-type stone chamber. The sarcophagus is made of white tuff from Mt. Hiyama in Tsuda, Sanuki City, Kagawa Prefecture. Mortar and tube beads and iron swords were excavated from the coffin.

大代古墳(おおしろこふん)
住所:徳島県鳴門市大津町大代 [Google Map]
形状:前方後円墳
規模:墳丘長54m、後円部東西径約45m
埋葬:竪穴式石室、刳抜式舟形石棺(水銀朱塗布)
出土:獣形鏡片、碧玉製勾玉、短甲
時期:4世紀末頃築造
史跡:国の史跡「鳴門板野古墳群」

Oshiro Kofun Ancient Tomb
Address : Oshiro, Otsu town, Naruto city, Tokushima pref., Japan [Google Map]
Shape : Forward and backward circle mound
Size : Mound length 54 m, diameter of the posterior part 45 m
Burial : Pit-type stone chamber, dugout boat-shaped sarcophagus (coated with vermilion mercury)
Finds : Beast-shaped mirror, jasper beads, short armor
Period : Built around the end of the 4th century
Historical Site : National Historic Site “Naruto Itano Tumulus Group

【徳島 国指定史跡】前方後円墳をトンネルが通る!『大代古墳(おおしろこふん)』 - [Tokushima / National Historic Site] Oshiro Kofun Ancient Tomb

2021年11月撮影


徳島県鳴門市を通る高速道路から見える古墳。


大代古墳。トンネルが貫通しています。


袴腰山(はかまごしやま/大津富士・撫養富士/264.8m)


刳抜式舟形石棺(くりぬきしきふながたせっかん)大代古墳出土
大代古墳は4世紀後半に築造された全長54mの前方後円墳です。石棺は、後円部長部の竪穴式石室に安置されていました。全長2.84mの縄掛突起付き石棺で、香川県さぬき市津田の火山(ひやま)から産出する白色凝灰岩が使われています。棺の全面に水銀朱が塗られており、その一部は明瞭に残っています。棺の中からは、臼玉・管玉や鉄剣が出土しました。


大代古墳模型(縮尺:1/100)。大代古墳は、前方後円墳の1号墳と円墳2・3号墳で構成されています。1号墳の後円部には、竪穴式石室と刳抜式舟形石棺が確認されました。また、古墳のまわりを取り囲む円筒埴輪などもあわせて発見されました。いずれもそのまま埋め戻され、保存されています。


盾型埴輪、円筒埴輪、朝顔型埴輪


美しい文様


古墳に登ります。


高速道路


山の山頂に登ったら古墳がよく見えそう。


眉山(びざん)。遠くまで見渡せます。逆に言えば、周辺にあった集落からもよく見える場所にこの古墳が位置していたことがよくわかります。

大代古墳(おおしろこふん)
住所:徳島県鳴門市大津町大代 [Google Map]
形状:前方後円墳
規模:墳丘長54m、後円部東西径約45m
埋葬:竪穴式石室、刳抜式舟形石棺(水銀朱塗布)
出土:獣形鏡片、碧玉製勾玉、短甲
時期:4世紀末頃築造
史跡:国の史跡「鳴門板野古墳群」

Oshiro Kofun Ancient Tomb
Address : Oshiro, Otsu town, Naruto city, Tokushima pref., Japan [Google Map]
Shape : Forward and backward circle mound
Size : Mound length 54 m, diameter of the posterior part 45 m
Burial : Pit-type stone chamber, dugout boat-shaped sarcophagus (coated with vermilion mercury)
Finds : Beast-shaped mirror, jasper beads, short armor
Period : Built around the end of the 4th century
Historical Site : National Historic Site “Naruto Itano Tumulus Group

大代古墳

国指定史跡 鳴門板野古墳群

鳴門板野古墳群は、徳島県鳴門市から板野町にかけての阿讃山脈の麓に築かれた、弥生時代終末期から古墳時代前期(3世紀初頭〜4世紀末)の古墳の総称です。弥生時代終末期には、石を積み上げた墳丘をもつ積石塚を造りますが、古墳時代前期になると土を盛り上げた古墳を造るようになります。また、亡くなった有力者を埋葬する竪穴式石室の構造や、銅鏡•鉄器などの副葬品、古墳の表面に並べられた埴輪の特徴は、当時の政治的な中心大使であった畿内地域との強い関係があったことを示しています。こうした特徴を備える鳴門板野古墳群は、四国東部を代表する古墳群の一つであり、当時の社会を知ることができる重要な遺跡として評価されています。

大代古墳は、標高43mの南北方向の尾根上に築かれた全長54m、後円部東西径45m、前方部の長さ23mの前方後円墳です。発掘調査によって、後円部の頂上から結晶片岩を使った竪穴式石室が見つかり、内部には香川県さぬき市火山で産出する白色凝灰岩で作られた刳り貫き式の舟形石棺が置かれていました。石棺の蓋は、盗掘によって失われていますが、石棺の内外から獣形鏡片や玉類、銅や鉄の矢じり、鉄剣や短甲(鎧)などの武具、鉄製の斧や盤?おいった工具など、豊富な副葬品が見つかりました。また、墳丘からは、埴輪(円筒•家形•盾形•鞍形)が出土しています。大代古墳は、古墳時代前期末(4世紀末)の築造とみられ、鳴門海峡一帯を支配していた有力者の墓であると考えられます。なお、大代古墳の北に2号墳(直径22m)、南に3号墳(直径15m)の2つの古墳があります。

鳴門市教育委員会

大代古墳 – Wikipedia

大代古墳(おおしろこふん)は、徳島県鳴門市大津町大代にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている(史跡「鳴門板野古墳群」のうち)。2000年に道路建設に伴う事前調査で古墳であることが確認され、発掘調査されている。

2000年に四国横断自動車道建設に伴う徳島県埋蔵文化財センターによる事前調査により、道路予定地の尾根上に前方後円墳1基と周囲に円墳2基が確認された。前方後円墳(大代古墳)からは竪穴式石室とその内部の刳抜式舟形石棺が発掘されて、多数の遺物が出土した。当初、建設工事は古墳を破壊するオープンカット工法の予定であったが、トンネル工法に変更され、現地保存されることとなった。

墳丘
全長54メートル、後円部南北径約31メートル、同東西径約45メートル、前方部約23メートル、くびれ部幅約18メートル、前方部前面幅約21メートルで墳高は後円部約6.7メートル、前方部で約3.3メートルを測る。前方部、後円部ともに2段築成である。葺石は斜面全体ではなく、裾部を列石状に区画する。和泉砂岩(徳島県からも産出する)を主体とする割石と河原石を併用し、根石に人頭程度の礫石も使用されている。墳丘第1段テラス、前方部頂におい円筒埴輪が確認されており、後円部の各所(墳丘全体が発掘調査された訳ではない)からは円筒埴輪片、朝顔形埴輪片のほか家形埴輪片、盾形埴輪埴輪片、盾形埴輪も出土している。これらは後円部頂に樹立されていたと考えられる。

主体部
後円部中央に南北を主軸として竪穴式石室が構築されており、石室内部には刳抜式舟形石棺が安置されていた。石室上半は大規模な盗掘を受けており、上部構造は不明である。また石棺の蓋も遺存していなかった。地山を掘り込んで南北約7.4メートル、東西4.5メートルの長方形の墓壙を設け石室を構築している。石室は内法で長さ3.7メートル、北小口幅1.1メートル、南小口幅1.0メートルで北の小口幅がやや広くなっている。すべて結晶片岩を使用しており、壁体は北小口で7段35センチ、南小口で2段10センチの高さで残存していた。石棺は竪穴式石室中央に安置されており、縄突起を含む全長が2.84メートル、内法長2.23メートル、全幅87センチ、内法上端幅66センチ、深さは約42センチ、同内法24センチを測る。刳抜式舟形石棺であり、香川県大川郡に産する火山岩の白色凝灰岩の可能性が強い。石棺の内外全面には水銀朱の塗布が確認され、1部に明瞭に遺存する。被葬者は北向きに埋葬されていたようである。

副葬品
副葬品のほとんどは原位置を遊離して検出された。原位置に近い状態で出土した遺物は石棺内床面で滑石製臼玉28、緑色凝灰岩製管玉1、石棺外に沿えられていた鉄剣1のみである。盗掘埋土より出土した遺物には銅鏡片(獣形鏡)2、管玉4、臼玉510、銅鏃7、鉄鏃26、鉄剣片10、鉄刀片4、鉄矛(鉾)片7、短甲(長方板革綴短甲)1、鋤先2、鉄斧5、刀子15、鉇16、鉄鎌2、鉄鎌1、鑿2などがある。また、主体部の南東部分の土壙状の落ち込み部分からは碧玉製勾玉、緑色凝灰岩製大形管玉2、緑色凝灰岩製管玉8、銅鏡片2などが出土している。

大代古墳の被葬者像
同種の火山岩製の刳抜式石棺の出土例は香川県津田湾岸の伝・大日山古墳、けぼ山古墳、赤山古墳など 香川県の6例のほか、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府久米田貝吹山古墳が知られる。大代古墳の被葬者は西方約40キロの津田湾岸の首長と密接な関係を有しながら、付近の港湾を掌握した首長であったことが想定される。また、東方の大阪府貝吹山古墳に至る鳴門海峡・紀淡海峡をまたぐ石棺搬出ルートの存在が考えられ、これらのことから、当時の各地の首長の広域的同盟関係や政治的支配体制なども検討課題として今後浮上してくることも考えられる。

小さい土被りの大断面めがねトンネル施工実績 四国横断自動車道 大代古墳トンネル – 鴻池組

徳島県内最大級の前方後円墳を保存するため、道路構造を切り土構造からトンネル構造へ変更しました。その結果、小土かぶりで日本初となる大断面めがねトンネルを建設するため、高度な施工技術が求められました。

大代古墳
鳴門IC西側に位置し、徳島県内で最大級の規模(全長約54m)を誇る前方後円墳です。後円部中央には香川県津田町に産する白色凝灰岩を用いた石棺が収められていました。

道路構造の変更
非常に史跡価値の高い大代古墳を現地保存するため、道路構造を当初計画の切り土構造からトンネル構造へ変更しました。非常に小さな土かぶり地山(12~14m)に国内初の3車線大断面めがねトンネルを貫くという厳しい施工条件下で、直上古墳への影響を極力抑制するため、地表面沈下の抑制を主眼とした施工計画および情報化施工を行いました。

鳴門板野古墳群 文化遺産オンライン

指定:史跡名勝天然記念物
時代:弥生時代終末期~古墳時代前期
場所:徳島県鳴門市
指定年月日:20161003
管理団体名:鳴門市

徳島県の北東部に位置する阿讃(あさん)山脈東南麓の、東西約7kmの範囲に展開する、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて営まれた墳丘墓及び古墳から成る古墳群。
弥生時代終末期には、積石による墳丘を構築し埋葬施設が東西方向であるなど、四国東部の特徴が認められる。古墳時代前期前半でも、前方後円墳の可能性のあるものもあるが基本的に円墳であり、埋葬施設の構造は弥生時代終末期からの影響を受け継ぐ。ところが、古墳時代前期後半になると前方後円墳となり、円筒埴輪を巡らすなど畿内的要素が顕著となる。
本古墳群は東部瀬戸内地域において、在地性の強い墳丘墓に始まり古墳出現過程を示す重要な事例である。古墳出現後は畿内地域からの影響を受けて変容していく様相から、当該時期における政治状況を知る上で重要である。