香川県高松市の五剣山の麓にアトリエを構えたイサム・ノグチさん。実は神奈川県茅ヶ崎市にも縁があります。1907(明治40)年、3歳の時に母レオニーと来日し、「空気がきれい」という理由で茅ヶ崎に転居。東海道沿いの牡丹餅立場のお茶屋跡近くに住んでいました。松林小学校を休学し、茅ヶ崎の指物師(さしものし/家具職人)のもとで見習い修行していました。晩年、振り返り「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった。僕のアーチストとしての開眼は茅ヶ崎で培われたものだ」と語っています。イサム・ノグチさんの暮らした痕跡を探して神奈川県茅ヶ崎市菱沼(ひしぬま)のあたりを散策してきました。
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1904年 日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家のレオニー・ギルモアとの間に生まれる。
1907年 ノグチが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居。
1908年 神奈川県茅ヶ崎市に転居して地元の小学校へ転入
1913年 横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ転入し、茅ヶ崎の自宅の新築設計を手伝うなど数々の建築作品に携わった。
1915年 1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師の見習い修行をする。
1969年 ユネスコ庭園への作品素材に香川県の庵治・牟礼(香川県高松市)で産出される花崗岩の庵治石を使ったことをきっかけに牟礼町にアトリエを構え、「あかり (Akari)」シリーズを発表する。ここを日本での制作本拠とし、アメリカでの本拠・ニューヨークとの往来をしながら作品制作を行う。
1988年 勲三等瑞宝章を受勲し、北海道札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組んだ。ノグチはその完成を見ることなく12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で84歳の生涯を閉じた。
1989年 ノグチの遺志を継いだ和泉正敏が制作した遺作『タイム・アンド・スペース』が完成し、香川県の新高松空港に設置。
Isamu Noguchi “My eyes as an artist were cultivated in Chigasaki.
Isamu Noguchi, who set up his studio at the foot of Mount Goken in Takamatsu City, Kagawa Prefecture, is actually related to the city of Chigasaki in Kanagawa Prefecture. He also has a connection to the city of Chigasaki in Kanagawa Prefecture: in 1907, when he was three years old, he came to Japan with his mother Leonie and moved to Chigasaki because of its “clean air. They lived near the ruins of a peony cake teahouse along the Tokaido Highway. He took a leave of absence from Matsubayashi Elementary School to apprentice with a furniture maker in Chigasaki. In his later years, he said, “I was fortunate to have spent my childhood in Japan, where nature is sensitive to change. In Japan, I was always close to nature. My eyes were opened as an artist in Chigasaki,” he said.
牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡碑
住所:神奈川県茅ヶ崎市松林1-16 [Google Map]
Monument to the remains of the Peony Cake Tea House
Address: 1-16 Matsubayashi, Chigasaki City, Kanagawa Prefecture [Google Map]
国道1号線
東海道、牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡
菱沼歩道橋
お地蔵さん
松林小学校
石のモニュメント。イサム・ノグチさんがいた頃にはあったでしょうか。
石垣
大銀杏
不動明王
遊具
ひしぬまお花畑。今は宅地が進んでいますが、当時はもっと畑が広がっていたと思われます。
栃木県、大谷石の石蔵。大谷石(おおやいし)は軽石凝灰岩で、栃木県宇都宮市北西部の大谷町付近一帯で採掘される石材です。
菱沼歩道橋
富士山
異人館踏切。おそらく異人館があったのは戦後まもなくなので、イサム・ノグチさんとは無関係かな。
海岸神社
茅ヶ崎海岸。富士山
烏帽子岩
富士山とトンビ
アオバト
初日の出
茅ヶ崎の煌き(イサムノグチ)|茅ヶ崎観光情報サイト「ちがさきナビ」茅ヶ崎市観光協会
少年期を茅ヶ崎で過ごした彫刻家、造形家などきわめてユニークな芸術家
日本名:野口 勇1904(明治37年)~1988(昭和63年)、アメリカ・ロサンゼルスで、英詩人、小説家、評論家、俳句研究者である父野口米次郎、作家、教師、およびジャーナリストである母レオニー・ギルモア(アメリカ人)の子として生を受ける。彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家。日系アメリカ人。1987年(昭和62年)アメリカ 国民芸術勲章受章。1988(昭和63年)年勲三等瑞宝章受章
1907(明治40年)、イサムが3歳の時に母レオニーと来日し、米次郎と同居するが、米次郎は武田まつ子と結婚し、イサムは野口勇として、東京の森村学園付属幼稚園に通学する。その後、母子は米次郎の家を離れ「空気がきれい」と定評のあった茅ヶ崎に転居する。茅ヶ崎市菱沼の旧跡牡丹餅立場近くに住み、松林尋常小学校に通う。自然豊かな茅ヶ崎の事を晩年、振り返り「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった。僕のアーチストとしての開眼は茅ヶ崎で培われたものだ・・・」と語ってる。1915年の1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら茅ヶ崎の指物師(さしものし狭義で家具職人のことを言う)について見習い修行していく。学校を卒業した後、単身1918年インディアナ州ローリング・プレーリーのインターラーケン校に7月に入学するが、8月に同校は閉鎖。エドワード・ラムリーが父親代わりとなり、C・マック宅に寄宿し、ラ・ポート高校に通学し、トップの成績で卒業する。茅ヶ崎では4軒の家を転居し、滞在は正味6、7年となる。
終戦後、1947年に「ノグチ・テーブル」をデザイン・制作。1950年に再来日し、銀座三越で個展を開き、その時丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。1年後岐阜市長の依頼で岐阜提灯をモチーフにした「あかり(Akari)」シリーズのデザインを開始する。同年、山口淑子(李香蘭)と結婚する(1955年に離婚)。 鎌倉の北大路魯山人に陶芸を学び、素焼きの作品制作。魯山人の邸宅敷地内にアトリエ兼住まいも構えた。1961年からはアメリカに戻り、ロング・アイランドシティにアトリエを構え、1969年にシアトル美術館にて彫刻作品『黒い太陽』を設置する。また、東京国立近代美術館のために『門』を設置する。この年香川県牟礼町にアトリエを構え、「あかり(Akari)」シリーズを発表する。1970(昭和45年)には大阪で行われた日本万国博覧会の依頼で噴水作品を設計。東京の最高裁判所の噴水を設計し、設置する。1984(昭和59年)からはニューヨーク・ロングアイランドのイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。同年、コロンビア大学より名誉博士号を授与され、ニューヨーク州知事賞を受賞する。1年後に1986年開催のヴェネツィア・ビエンナーレ(第42回)のアメリカ代表に選出され、同年日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞、札幌市のモエレ沼公園の計画に取り組む。これは公園全体を一つの彫刻に見立てた「最大」の作品であったが、その完成を見ることなく1988年12月30日、心不全によりニューヨーク大学病院で没した。84歳。なお、真珠湾攻撃から約35年後の1977年に現在姉妹都市のホノルル市の市庁舎敷地内に設置する彫刻のコンペが行われ、ハワイの地を愛していたノグチにとって、このコンペを勝ち取れば監督としてハワイに訪れる口実となると考え(もちろんそれだけではないと思うが)嬉々としてこのコンペに参加した。現在完成した「スカイゲート」は高さ7.3m。ホノルルの海と山とに挟まれた低地の地形と気候に関与する彫刻としてデザインされている。
日本人として育てたいと考えていた母レオニーは、今度はアメリカ人として育てようと横浜のインターナショナルな学校に転校させます。だがそこでも差別!レオニーは自分たちのマイホームを築こ うと出物を見つけ家を新築します。「三角な土地に三角な家を建てます」という友人に宛てた手紙どおり、まわりが広い別荘地の中に36坪の小さな家を 建てました。イサムと共同で設計したというマイホームは、丸窓の中に富士山がくっきりおさまるレオニーのお気に入りの家となりました。茅ヶ崎では4軒の家を転居し、滞在は正味6、7年となります。イサムは学校にも行かず大工に弟子入り、レオニーは家庭で教えることにしました。でも、しっかり と教育しなくては…と考えて、イサム一人をアメリカに帰します。
イサムは単身渡米。だがこの学校、2か月後に突然閉校。彼は一人取り残されてしまいました。やがて 学校経営者ラムリーが救出。彼が親代わりとなり高校を卒業。ラムリーの家で暮らすことになります。そんな時、レオニ―はどうしていたのでしょう?日本からイサム宛に便りを書けども書けども届かない。閉校になった学校には配達されず局止めになっていたのです。そうとも知らずイサムは「母にも捨てられた…」と絶望。 やがて育ての親ラムリー一家のいるニューヨークに行き、ラムリーに恩返しがしたくてコロンビア大学 医学部に進学します。でも、夜な夜なアーチストとしての血が騒ぎ、医学の勉強は身につきません。やがて日本から母と妹も帰って来ました。母の勧めもあり、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校に通います。
昭和2年、奨学金を得て2年間パリに留学。ひとまわりもふたまわりも成長して帰って来ます。だが「勉強は西洋だけではない」と東洋の勉強に旅立ちます。ロシア・中国・韓国…、何か月も学びながら目と鼻の先の「日本に立ち寄りたい」と父に連絡を取ります。しかしヨネからの返事は「野口を名乗って日本には来るな!」というものでした。イサムは悩みますが、父に会いに行くわけではない。「日本の文化を学びたい」というおさえがたい気持ちから、日本訪問を断行します。たくさんの日本文化に触れ、多くの収穫を得てアメリカに帰ったイサムは『東洋の巡礼』の個展で喝采を浴び、芸術家としての地位を不動のものにしていきます。仕事、仕事で世界を駆け巡るイサム。レオニ―はイサムの庇護を離れ自活の道を選びます。観光地で小物を売る商売。日銭を稼ぎ日々の慎ましい生活を送るのです。
だが、健康を害し、昭和8年12月31日、大晦日に死去(享年59)。イサムとアイリスは御影石で小さな墓を建てました。日本は戦時色がますます強くなっていきます。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃!一気に戦争は泥沼へ…。父の消息が分からなくなり ました。イサムは八方手を尽くして捜します。一家は東京大空襲で焼 け出され茨城に疎開していました。やっと捜し当てた父。親子の文通がようやく始まった時には、父はもう筆も執れないほど弱り果ててい ました。ヨネは疎開先で亡くなり、僧侶になった三男の寺に戻ってき ました。藤沢市常光寺の文学碑には辞世の詩が刻まれています。『鐘が鳴る 鐘が鳴る…』故郷を思いながら詠んだのでしょう。戦争は多くの爪痕を残し終戦を迎えました。父・ヨネが40年も教 鞭を執っていた慶応義塾。ここも壊滅的な打撃を受けました。この復興のプロジェクトに加わり「新萬来社(しんばんらいしゃ)」を建設 します。イサムは各地で精力的に個展を開きます。アメリカで着物ショーが開かれた折、山口淑子=李香蘭がやってき ます。彼女も国籍問題で苦労しました。イサムと境遇が似ていたので、二人はすぐに意気投合、結婚します。淑子 30 歳、イサム 46 歳。新 婚生活がスタート。新居は北鎌倉、北大路魯山人宅内の一棟でした。
イサムは広島で平和に関わる仕事がやりたい。この一念で東西2つの平和大橋を作りました。さらに原爆慰霊碑の設計を望んだのですが最終的には不採用。これはまぼろしの設計図に終わります。イサムは(日本からも拒否された)と落胆しながら帰国します。さらに、一緒に渡米するはずの新妻・淑子のビザが下りません。なんと1年9か月もかかってやっと手に入れることができました。念願叶って、やっとアメリカでの生活が始まったものの二人の間には不協和音がたちはじめ、とうとう円満離婚で決着をみます。結婚生活わずか4年2か月。そのうちの1年9か月はビザ問題で揺れましたので、さらに短い期間でフィナーレを迎えました。
イサムは取り憑かれたように仕事に没頭します。『リーダーズ・ダイ ジェスト』。『ユネスコ本部』。日本にも高松市牟礼(むれ)に拠点を置き地元の庵治石(あじいし)を活かし製作に精を出します。休む暇なく世界を駆け巡る、めまぐるしい生活。作品を一つ一つ書き連ねていたら紙面がいくらあっても足りません。さて、最後の仕事は札幌市モエレ沼公園の仕事でした。産業廃棄物 の山を楽しい遊具でいっぱいにして子供も大人も夢の持てる公園作りは、実に企画から完成まで16年の長期にわたる壮大なプランでした。 まさかこれが最後の仕事になろうとは、まわりも本人も思いだにしませんでした。イサムは84歳を過ぎても決して衰えぬ体力、精神力を 持ち続けていましたが、肺炎をこじらせて入院。わずか数日で帰らぬ人となりました。昭和63年12月30日。享年84 歳。父の国・母の国、運命の宿命を担い、その狭間で彼はいつも揺れ動き苦しみました。今、多くの作品に取り囲まれて、ニューヨーク・ロングアイランドのイサム・ノグチ庭園美術館で静かに眠っています。私はあなたが残したたくさんの作品を愛で、慈しみ伝えて行くことを約束します。安らかにお眠りください。 (長嶺敬子)
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イサム・ノグチが母レオニーに連れられ日本に到着し1年程後、落ち着いた先は東京大森の山王付近だった。 その住まいは偶然にも16歳頃の獅子文六が住んでいた家の隣であった。文六はレオニー一家に始めて会った 時のことを『へなへな随筆「イサム君」』に次のように書いている。『外国人が越して来た。とても背の高い、顔が赤い感じのする婦人で男の子が一人、幼い女の子が一人、日本人書生が一人いた。しかし不思議なことに 門の表札は野口という字が書いてあった』。またレオニーのことを『新聞の金髪美人というのは、ウソだった。 骨張った顔で、ペンのように鼻が尖り、今から考えると、外国婦人として、むしろ醜女に近かった』。 越して来てまもなく、隣家のよしみで文六の母や姉とレオニーは仲良くなり、家族ぐるみで交際したようだ。イサムはその頃、七、八歳で、毎日のように文六の家に遊びに来て、文六とも遊んだ。一方、文六が中学5年 生か大学予科の頃、英語の勉強のため、レオニーからメーテルリンクの英訳脚本集なども借りたりしている。 その後、レオニー一家は茅ヶ崎へ移転する。文六はレオニーに英会話の勉強を教えてもらおうと茅ヶ崎を訪 ねる。へなへな随筆にはその時のことを『初夏の晴れた日だった。私は土産物を持ち、ハカマを穿いて茅ヶ崎 へ出かけた。当時の茅ヶ崎は、駅を降りると、人家も少なく、砂地の道の両側は果樹園だった。手紙の案内図 で、辻堂方角へ歩いて行くと、村道沿いにポツリと一軒立ちの、小さな新築の家ですぐわかった。』とある。 このとき、文六は海でレオニーと競泳したり、イサムと一緒に無人の團十郎別荘(九代目市川團十郎死後約10年)を覗きに行ったりしている。このあたりの記述は当時の茅ヶ崎を大変良く描写している。 その後、文六とイサム達との交流は途絶えるが、『ある時、新聞の学芸記事に新進彫刻家イサム・ノグチの 名を認め感慨を催した』とある。獅子文六とイサム・ノグチは、その後会うことがなかった。しかし、彼らは お互いに意識しながら同時代を精一杯生き抜いたように思えてならない。 (加藤)
※獅子文六全集 第14巻 朝日新聞社 昭和44年4月20日発行 へなへな随筆「イサム君」昭和27年1月「文芸春秋」 より参考一部引用した。
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