愛媛県大洲市にある木造の『大洲城』に宿泊できるプランが全国初ではじまりました!

スペインには、アルハンブラ宮殿や古城などを改装し宿泊できる『パラドール(Parador)』という半官半民の宿泊施設ネットワークが1928年からあり国内100箇所ほどの文化施設や景勝地に泊まることができます。ついに、日本でも城に泊まれる日がやってきました。1泊100万円と高額なので、なかなか機会がありませんが、お城で観月しながら飲む日本酒、お城から眺める朝日は格別でしょうね。

大洲城
住所:愛媛県大洲市大洲903 [Google Maps]
電話:081893241146

Ozu Castle
Address : 903 Ozu city, Ehime pref., Japan [Google Maps]
Tel : 081893241146


天守閣からの眺め(2013年5月撮影)


ちょんまげにご注意


木組み Wooden Connecting Joints
柱と梁(はり)による複雑な木組みは、富山県井波の宮大工と地元大洲の大工たちが伝統工法にならい金物を一切使わずに組み上げたものです。


梁 Wooden Structural Beam
大洲城に使用されている梁(はり)は、天守で99本、多聞櫓(やぐら)で12本の合計111本です。木挽き(きびき)式に使用した梁は、その中で3番目に大きな梁です。樹齢は約350年の木曽桧(ヒノキ)です。梁の断面は、マルタの大きさを生かして、八角形に仕上げています。

NIPPONIA HOTEL 大洲 城下町

NIPPONIA HOTEL 大洲 城下町

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肱川の霧にまちが包まれて迎えた朝は、快晴になると言われています。肱川と並ぶ大洲のアイコン、大洲城を望む城下町をまるごとホテルと見立てた、故くて新しいホテル。
フロントや客室は、まちに点在する歴史的に価値の高い邸宅。積み重なった歴史の趣を残しつつ、現代的な快適さを加えた、部屋数限定のブティックホテルに生まれ変わりました。大洲の恵まれた自然地形から生み出される数々の食の宝をアレンジしたフュージョン料理を、美しい砥部焼とともにお楽しみください。

まち全体がホテル 大洲を味わいつくす非日常ステイ

大洲のまちに入ったら、大洲城の目の前にある歴史的な邸宅が滞在のはじまり。その建築が持つ元々の良さを最大限に生かしつつ機能性は現代風にアレンジすることで、土地の歴史を五感で感じながら、快適でリラックスする時間をお楽しみいただける空間が広がっています。

チェックインの後は、まちに点在する客室棟へ。まち歩きをしながらまずは大洲の雰囲気をお楽しみいただきます。空き時間には肱川を使ったアクティビティや、昭和の品の宝庫「ポコペン横丁」などへ。夕食は再びフロント棟にあるレストランに。大洲の特産品をふんだんに使用したフルコースをお楽しみいただけます。星空とともにそびえたつ大洲城の夜景や、霧に包まれた幻想的な肱川、国の重要文化財、臥龍山荘でお茶会など、大洲ならではの楽しみ方を、お客様のご要望に合わせて、VMGコンシェルジュがご案内いたします。

肱川の河畔に望む大洲城は、鎌倉時代末期の守護宇都宮氏によって築城され、その後藤堂高虎によって大改修されました。明治には老朽化で廃城となった天守を、大洲市民の保護活動と寄付によって復元。古写真や天守雛形(江戸期の木組みの模型)が残っていたことから、木造での完全復元に成功した全国でも貴重なお城。木造天守には日本初のキャッスルステイとしてお泊り頂けます。

キャッスルステイ | NIPPONIA HOTEL 大洲 城下町

『城』に泊まる

日本初、木造天守での宿泊体験
ヨーロッパでは古城を改装したホテルに宿泊できるホテルが数多くあります。ここ大洲では、城そのものに宿泊が可能です。大洲城は老朽化が原因で明治時代に一部を残して、天守閣が廃城となりましたが、大洲の地元住民の保全活動や、市民の寄付により完全復元。当時の古写真や木造雛形が現存していたことから、木造での完全復元が可能となったお城です。

そのため、当時にタイムスリップしたような気分になれる、歴史そのものに泊まる体験をいただけます。また宿泊だけでなく、1617年の城主、加藤貞泰の入城シーンを再現。幟隊の歓迎から鉄砲隊による祝砲、宿泊者には馬で入城する城主をサポートする影武者の役割を体験していただけます。また、国の重要文化財「臥龍山荘」での殿様御膳を堪能するなど、城主になった気分を体験いただける宿泊企画です。

Ōzu Castle – Wikipedia

Ōzu Castle (Ōzu-jō), also known as Jizōgatake Castle (Jizō-ga-take-jō), is a castle located in Ōzu, Ehime Prefecture, Japan. Early defensive structures date back to early 14th century by Utsunomiya Toyofusa. In 1888 deterioration of the castle keep (天守, tenshu) led to its demolition, but it was accurately re-constructed in 2004.

History
Local records state that, by 1331, barricades and small fortresses punctuated the Jizōgatake, an strategic mound overhanging the Hiji River (Hiji-kawa) . The defensive compound as it stands today, however, was not erected until 1585–1617. Toyotomi Hideyoshi and Tokugawa Ieyasu unification campaigns brought constant shifts on the incumbents of Ōzu domain (大洲藩, Ōzu-han), including Wakisaka Yasuharu, Kobayakawa Takakage, Tōdō Takatora, and Toda Katsutaka warlords. Among them, renown castle designer Takatora is believed to have been the major contributor to the overall outline of the current structure.

In 1617, alighting from Yonago province, Katō Sadayasu took possession of the Ōzu domain. The Katō clan retained control of the domain during 13 generations, until the onset of the Meiji Restoration (1868).
During the Meiji era (1868-1912), abandoned and exposed to the mercy of inclement weather and natural hazards, the castle deteriorated rapidly. Threatening collapse, in 1888 it was decided to demolish the keep. Nonetheless, its two surrounding turrets (yagura), Koran Yagura and Daidokoro Yagura, were left intact. These two elements, built in late Edo period (1603-1868), as well as the Owata and the Minami Sumi turrets were declared in 1957 Important Cultural Property by the Agency for Cultural Affairs of the Japanese Government.
Recent developments

In 2004, local citizens’ & city officials’ efforts culminated in the completion of a new keep at a cost of 1.6 billion JPY.

Old photographs, old maps and the discovery of an old model -depicting its original structure- permitted a faithful reconstruction. Only traditional assembling techniques and natural materials were employed. Historic accuracy was privileged to comfort and ease of construction. The project brought new life to ebbing carpenter and blacksmith craftsmanship.

At 19.15 m high, it stood as the tallest timber structure to have been erected since the enactment of the first post-war building regulations in 1950, Building Standards Law (建築基準法, kenchiku kijun hō) .

The castle is open to visitors. Overstays are also possible.

1泊100万円超 城に泊まれる「城泊」開始前に式典 愛媛 | NHK

愛媛県大洲市にある「大洲城」で、復元された木造建築の城に宿泊するプランが全国で初めて始まるのを前に、2020年7月18日、記念の式典が開かれました。

大洲城は鎌倉時代末期からの歴史があり、明治時代に取り壊されましたが、平成16年に復元された木造の天守は2階までが吹き抜けの珍しい構造となっていて、地元の貴重な文化財となっています。

この城を生かして国内外から観光客を呼び込もうと、大洲市などは天守の1階で宿泊できるプランを全国で初めて「城泊=キャッスルステイ」として打ち出しました。

18日は関係者らおよそ30人が参加して記念の式典が行われ、大洲市の二宮隆久市長が「豪雨や新型コロナウイルスの影響で市の観光産業は甚大な被害を受ける中、この取り組みが未来を切り開くことを期待します」とあいさつしたあと、鏡開きをして祝いました。

「城泊」の料金は1泊100万円以上の設定で、1日1組の限定となっていて初日の今月23日にはすでに予約が入っているということです。

運営会社の他力野淳代表取締役は「天守に宿泊する試みは日本の観光の新たなメッセージになります。市民と一緒に取り組みを進めていきたい」と話していました。

大洲城 – Wikipedia

大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現・八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはやや鄙びた立地ながらも交通の要衝と言える場所にあった。伊予宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。

江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。また、明治維新後から現在に至る地元住民の城郭への保護活動と、平成16年(2004年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。