「松山や 松のうら風 吹きこして しのびて拾う 恋忘れ貝」
1156年、保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐の国に配流される前に滞在されたと伝わるのが直島の琴弾の浜です。この浜で貝を拾い、京の都への恋する想いを詠まれたという伝承とともに歌碑が残されています。その伝承をもとにつくられた直島銘菓がイワタコンフェクトさんの『恋わすれ貝』です。直島(なおしま)という名前は、崇徳上皇が、島民の素直さを賞賛されたことに由来していると言われています。直島にある崇徳上皇関連の史跡などを下記にリストアップしておきました。旅のご参考になさっていただければ幸いです。
・琴弾地(ごたんぢ)海水浴場 [Google Map]
・恵美須神社鳥居 [Google Map]
・崇徳上皇の歌碑 [Google Map]
・泊ヶ浦御行在所跡 [Google Map]
・崇徳天皇宮 [Google Map]
・御籠 [Google Map]
・八幡神社 鳥居 [Google Map]
・イワタコンフェクト [Google Map]
‘Matsuyama, the wind behind the pine trees is blowing, and I pick up the love-forgotten shells I have been shinning over.’
It is said that in 1156, after the defeat of Emperor Sutoku in the Hogen Rebellion, he stayed at Kotodama beach on Naoshima before being exiled to Sanuki Province. A poem monument remains with the legend that he picked up shellfish on this beach and composed a poem about his love for the capital of Kyoto. Naoshima’s famous confectionery based on this legend is Iwata Confecto’s Koiwasuregai. The name Naoshima is said to derive from the Emperor Shotoku, who praised the honesty of the islanders. The following is a list of historical sites on Naoshima related to Emperor Shotoku. We hope you will find it useful for your trip.
恵美須神社の鳥居
八幡神社の鳥居(香川県県指定有形文化財)。八幡神社参道入口に建つ明神鳥居。高さ3m85cm、柱の直径50cm、直島産の花崗岩製。
八幡山極楽寺(直島町指定有形文化財)。八幡山極楽寺長寿院、八幡神社の別当寺。開基は平安初期、聖宝尊師(理源大師)によると伝えらています。後に、直島に来島した僧が配流された崇徳院追福のために御堂を建立、海中から得た弥陀の尊像を安置したという言い伝えもあります。本尊は、阿弥陀如来。
崇徳天皇宮
西行法師像。西行法師が、崇徳院の葬られた白峯陵(香川県坂出市 / しらみねのみささぎ)を訪ねて、怨霊となった崇徳院と問答をするという話が上田秋成の『雨月物語』の『白峯(しらみね)』に書かれています。
泊ヶ浦御行在所跡。崇徳上皇が讃岐国へ流される際、一旦四国上陸を拒否されたため、3年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたという伝承が残っています。
支えているのはお相撲さん?
崇徳天皇宮
1963年(昭和38年)創業のお菓子屋『イワタコンフェクト』さん。直島銘菓『恋忘れ貝もなか』『女文楽もなか』
おまけ。アートで有名な直島の砂浜。
1,500年くらい前の塩づくりにつくわれた土器、製塩土器が落ちています。
2万年以上前に生きていた象の化石。瀬戸内海の海底から底引き網にひっかかて採取されたナウマンゾウの牙の化石。約8万年前から1万5,000年前、氷河期にはいまより海面の高さが130mも低く、日本は大陸とつながっていました。かつて瀬戸内海は象の楽園でした。
直島小学校。1970年竣工、石井和紘(1944~2015年)設計。
象のオブジェ
直島ホール(直島町民会館)。三分一博志設計。
直島の歴史はこちらでも資料を拝見できます。宮浦ギャラリー六区。2013年竣工。西沢大良設計。元パチンコ999(スリーナイン)。アーティスト下道基行さんによる『瀬戸内「 」資料館』(2019年から公開)
直島に塩田があった頃の航空写真
世界的に有名な黄色いかぼちゃ。「南瓜」 草間彌生 1994年
地名の由来は姫泊の姫が父君をお慰めするために、琴を弾じた浜であるという故事からです。浜近くには崇徳上皇の歌碑と若山牧水の歌碑があります。また直島出身者が直島で作詞作曲し、大ヒットした「おやじの海」の記念碑もあり、歌が流れます。夏には「直島の火まつり」が一帯で行われ、アーティストライブや地元芸能とともに、沖合いの台船から1,800発余りの海上打上花火があがり、たくさんの人たちで賑わいます。
古代・中世
史料上での初出は平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄 巻第二』で、「讃岐の松山に 松の一本歪みたる 捩(もじ)りやすさの捩(すじ)りやすさに猜(そね)うだる かとや 直島の 然許(さばか)んの松をだにも直さざるらん」とある。この頃、直島は備前国に属していたと見られている一方で、同じく平安時代末期を描いた『保元物語』では保元の乱で敗れて讃岐国へ流された崇徳上皇が一旦直島の御所に移された場面で「当国(讃岐国)直島」と記しているなどはっきりしない[1]。
『日本書紀』の記述を基に品陀和気命大王が吉備国に向かう際に直島に立ち寄り、その上陸地が「宮ノ浦」だとする説がある。宮浦港すぐ傍の住吉神社境内には、応神天皇が上陸した際に腰掛けて休息されたと伝えられる応神天皇御腰懸岩が現存している。
崇徳上皇が讃岐国へ流される際、一旦四国上陸を拒否されたため、3年間を直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごしたとされる。京から追ってきた姫と上皇との伝説が残る姫泊山・琴弾地浜、同じく上皇を訪ねて来た大・中・少納言が船を着けた土地が納言様、上皇が能の舞台を人々に鑑賞させた場所が能見の浜で舞台になった沖合いの島が演題「葛の舞」に因んで葛島、など多数の地名が上皇ゆかりとされ、直島という島名自体も島民の純朴さ、素直さを賞賛して上皇が命名したという言い伝えがある。
古来より農業には向かない地形で、喜兵衛島に痕跡を留めるような製塩業に始まり、瀬戸内の交通の要衝として漁業や交易、海賊(実際には、海難事故の多い難航路を抑えての水先案内が主であったと言われる)で生計を立てていた。
戦国時代末期に小規模な水軍の将、高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町として本村の町並みや寺院群、神社などを整備した。ほかにも丸山城、八日山城、風戸城などの出城を島内各地に作っている。キリシタン大名でもあった高原次利は、戦国末期に豊臣秀吉に仕え備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内をした功績により1582年に男木島、女木島、直島の3島600石の領主となった。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認められ、関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し徳川初期の1619年に没するまで所領を守り抜いた。子孫は6代目の時に改易され、1671年に天領となる。直島城は改易後も残っていたが1781年の大火の際に焼失したと推測されている。
「さきほど、島に着いたばかりです。お供の者から上皇さまは浜辺をお歩きになっていらっしゃる。と聞きましたので、ここで、こうして琴を弾きながらお待ちしていました。都から持ってまいりました琴、この調べがお気に召していただけて、ただうれしゆうございます」。
「まあ、なんと美しい貝なのでございましょう。潮の香りにみがかれ、磯辺の波に洗われて育った貝の肌のなめらかなこと。上皇さまお手ずからお拾いくださったこの貝は何という貝なのでしょうか」
「玉野の伝説」著者:河井康夫発行:昭和53年
上皇一行は7月23日に都を出発され、山陽沿岸の海道に沿って明石を経て直島、さらに松山の津に至る8月10日まで、片道13日かかっている。また、上皇崩御の時8月26日夜から検視後に柩が出発したとされる9月16日までは21日間である。上皇崩御後の対応が片道約10日になっていることからすると片道が約2~3日ほど短いから、諸条件の違いや崩御の知らせは急ぎであったとしても、この数日の差が上皇御一行の直島滞在を表しているのではないかと推測される。この数日間は上皇が直島に滞在されたと考えられるから、この話が大切に伝承されていたところ、江戸初期に讃岐本地の伝説を取り入れて伝説や史蹟を大々的なものにして数年間住まわれたように主張した動きがあったようである。いずれにしろ、2日前後、苦難の期間を前にした上皇が滞在されたのは事実と考えられるから御霊が祀られるべき場所であるものの、配流の地ではなかったということになろうか。
松山や まつの浦風吹きこして
しのびてひらふ 恋わすれ貝崇徳院は、1119年、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。当時絶大な権力を持っていた白河上皇は、1123年、鳥羽天皇を二十歳の若さで退位させ、わずか五歳の崇徳天皇を即位させました。これにより崇徳天皇は、鳥羽上皇の恨みを買うこととなり、白河上皇の死後、権力は鳥羽上皇に移り、鳥羽上皇と崇徳天皇の間はますます険悪の度を高めていきました。1155年、鳥羽上皇は、我が子の即位を願っていた崇徳天皇の望みを無視し、崇徳天皇にとっては弟である後白河天皇を即位させました。1156年(保元元年)七月、鳥羽上皇の死をきっかけに、崇徳上皇は、後白河天皇から皇位を奪うため挙兵し、天皇側・上皇側の二手に分かれて、都を舞台に骨肉の争いとなりました。これが保元の乱です。この戦いは後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐の国(香川県)に配流となり、配流の途中で三年の間、直島の行在所に滞在されたのち、讃岐へ渡られたということです。この歌は、ここ琴弾地の浜で、恋を忘れることができるという忘れ貝をひろい、京の都を恋うる思いを抑えている上皇の気持ちを御詠みになったと伝えられています。直島には、古くから崇徳院に関する伝承が残されており、人びとは、このことについて特別な関心と、崇徳院に対する深い敬慕の念を持っています。
2004年(平成16年) 直島町教育委員会
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