写真:往時の桜御門を伝える古い写真。櫓部分は直接石垣に載せられていたとみられる。高松市歴史資料館
写真:1884年(明治17年)取り壊し寸前の高松城天守閣の貴重な写真。玉藻公園(史跡高松城跡)
写真:明治時代に撮影された天守(非現存) 高松城 (讃岐国) – Wikipedia
高松城「桜御門」復元へ/規模、構造ほぼ解明 – 四国新聞
高松市は31日、高松城跡(香川県高松市玉藻町)の「桜御門」復元に向けた基礎部分の発掘調査結果を公表した。桜御門の櫓(やぐら)部分を支えた東西の石垣(高さ約4メートル)上面部に礎石の痕跡が確認できなかったことなどから、櫓部分は直接石垣に載せていたとみられる。市はこれまでに集めた資料を踏まえ、全容がほぼ明らかになったとして、来年度から文化庁と協議しながら、基本設計に着手したいとしている。
同日、玉藻公園披雲閣であった「史跡高松城跡建造物検討委員会」(委員長・西和夫神奈川大工学研究所客員教授)で報告した。
桜御門は披雲閣の正門にあたる櫓門。門柱の痕跡などから推測される大きさは幅約12メートル、奥行き約5メートル、地上からの高さ約9メートル。古写真は門の扉上部に見張り部屋があったことを伝えているが、1945年7月の高松空襲ですべて焼失した。
発掘調査は、桜御門の規模や構造などを解明するため、昨年12月に行った。
調査結果によると、東西の石垣上面部で礎石の痕跡は確認できなかった。加えて、焼失後の状況が比較的良い西側石垣上面部で、高さ調整のためにノミで加工した跡が残っており、櫓部分は石垣に直接載せた構造だったと推測している。
このほか、直線的に残っている焼けた石の跡が桜御門の建物の寸法を知る手掛かりになることや、焼土層の上から出てきた鉄くぎや漆喰(しっくい)、土壁片は焼失前の遺物と考えられ、建築材料や工法を検討する上で貴重な資料になるとしている。
三の丸への入口「桜御門」跡です。寛文11年(1671)、披雲閣と同時期に建設され、「桜御門」が城内の正門となり、城下に通じる大手門は廃止された。「桜御門」は、通常の「虎口(こぐち)」(曲輪の出入口)になっていない門(曲がって開く)で、門内側に一文字石垣を造り防衛策としています。近世城郭の門としては特異な構造といえます。「桜御門」跡の石垣は、さして高くはないが、端正かつ荘重な美しさがあります。「三の丸」表門として、左右に「多聞櫓」が続いていたが、明治末期に取り払われて門のみ現存していました。
高松城 (讃岐国) – Wikipedia
別名「玉藻城」は、万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因み、高松城周辺の海域が玉藻の浦と呼ばれていたことに由来するとされている。
高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれた。現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものである。
近世城郭の海城としては、最初で最大の例で、「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われている。本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」であった。その様子は、解体される以前に写真におさめられ、また1884年にイギリスの週刊新聞「ザ・グラフィック」でイギリス人のヘンリー・ギルマールの絵によって紹介されている。
現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されている。城の遺構としては、三の丸入り口には桜御門があったが、1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失した。
参考:
玉藻公園(史跡高松城跡)
高松城の魅力を語る講座 その7:高松市
コメントを残す