香川県高松市の屋島の麓にある屋島神社。別名、讃岐東照宮。東照宮(とうしょうぐう)とは、東照大権現、徳川家康を祀る神社です。屋島神社は、讃岐高松藩の初代藩主、徳川光圀(水戸黄門)の兄、松平頼重(まつだいら よりしげ)を祭神としています。
Yashima Shrine is located at the foot of Yashima in Takamatsu City, Kagawa Prefecture. It is also known as Sanuki Toshogu. Tōshō-gū is any Shinto shrine in which Tokugawa Ieyasu (1543–1616) is enshrined. Yashima Shrine is dedicated to Matsudaira Yorishige, brother of Tokugawa Mitsukuni (Mito Komon), the first lord of the Takamatsu clan in Sanuki.
讃岐東照宮、屋島神社
住所:香川県高松市屋島中町140 [Google Map]
Sanuki Tōshō-gū, Yashima shrine
Address : 140 Nakacho, Yashima, Takamatsu city, Kagawa pref., Japan [Google Map]
2019年5月撮影
讃岐東照宮 屋島神社
獅子
讃岐東照宮、屋島神社
住所:香川県高松市屋島中町140 [Google Map]
Sanuki Tōshō-gū, Yashima shrine
Address : 140 Nakacho, Yashima, Takamatsu city, Kagawa pref., Japan [Google Map]
A shrine where TOKUGAWA Ieyasu is enshrined. Its sculpted shrine gate was created by a descendant of HIDARI Jingoro.
In 1804, MATSUDAIRA Yorinori, the 8th Lord of Takamatsu began to build shrine pavilions enshrining TOKUGAWA Ieyasu. This shrine, also called Sanuki Toshogu, was completed in 1815 by master builder HIDARI Rihei Tadayasu V, a sixth-generation descendant of HIDARI Jingoro. While the main shrine and the front shrine were later rebuilt, the shrine gate with its phoenix and other sculptures is original.
Matsudaira Yorishige – Wikipedia
Matsudaira Yorishige (August 7, 1622 – May 24, 1695) was a Japanese daimyō of the early Edo period, who ruled the Takamatsu Domain. Yorishige was the first son of Tokugawa Yorifusa, and Tokugawa Mitsukuni was the third son of Tokugawa Yorifusa, the first Tokugawa daimyō of Mito Domain; this made him the grandson of Tokugawa Ieyasu. One of his daughters married Takatsukasa Kanehiro.
松平 頼重(まつだいら よりしげ)は、江戸時代前期の大名。讃岐高松藩の初代藩主。高松松平家の祖。水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)の同母兄。3代藩主徳川綱条の実父。
水戸藩主徳川頼房の長男として誕生。慶喜の9世祖父にあたる。母は谷重則の長女・高瀬局(久昌院)。
懐妊した母・高瀬局は、父・頼房に堕胎を命じられたが、三木之次は頼房の准母英勝院に相談の上、江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、頼房に隠したまま江戸で育てられた。光圀懐妊時にはその事実が発覚しないよう、京に送られ大納言滋野井季吉に預けられて養育される。天竜寺慈済院の洞叔寿仙のもとで学問を学ぶ。その後寛永9年(1632年)に、水戸からの招きで藩邸に入るも寛永14年(1637年)まで、父頼房に御目見できなかった。この間、水戸藩の嗣子には同母弟の徳川光圀が決定していた。翌寛永15年(1638年)に右京大夫を名乗り3代将軍・徳川家光に御目見した。このときの扱いは、光圀に次ぐ次男の扱いであった。寛永16年(1639年)常陸下館5万石を与えられた。その後寛永19年(1642年)、生駒騒動で改易・幕府直轄となった讃岐高松に12万石で入封される。
将軍名代として後水尾上皇に拝謁したり、交通の要所の讃岐を与えられるなど、次男扱いとされていても、長男に相応しい待遇を得ている。後に実子の徳川綱方、徳川綱条が光圀の養子となり、水戸藩の家督は綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に家督を譲って隠居した。元禄8年(1695年)に没した。
逸話
玉川上水より9年早い時期の寛永21年(1644年)、矢延平六に命じて、現代まで水不足で知られる高松城下に、配水枡・配水管を地中埋設した、日本で初めてといわれる本格的な上水道を敷設している。水源は亀井戸などで、跡地に今も水神社が残る。武者小路千家の祖、一翁宗守を藩の茶道指南役に据えるなど、文化面でも大きく寄与した。神仏への崇敬厚く、藩内の寺社を再興・修復し、寄進も行った。頼重は和歌も嗜んだことから、その折に三十六歌仙扁額を金刀比羅宮(狩野探幽・尚信・安信兄弟筆)、白峯寺(同じく狩野三兄弟筆)、白鳥神社(狩野安信筆)、石清尾八幡宮(狩野安信筆、昭和61年(1986年)の火災で焼失)、善通寺、法然寺に奉納している。
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