イベントレポートの新聞記事を掲載しました。

屋嶋城跡城門遺構見学会:高松市
平成23年度より屋嶋城城門南側の城壁の復元工事を実施しており,その工事の状況等について現地説明会を開催します。

日 程:平成24年2月5日(日) 午前8時30分~12時35分(受付は11時30分まで)
集合場所:屋島寺南前広場 整理券と資料を配布します。
(見学は集合場所で整理券を配布し,1回あたり約50名ずつ,25分程度を予定しています。)
参加費:無料 事前申込不要
雨天時:
雨天の場合は2月12日(日)同時刻に順延します。(12日も雨天の場合は中止)
順延の場合は,5日(日)午前8時00分~11時00分の間で,文化財課(TEL 839-2660)で確認可能。

屋嶋城 – Wikipedia

屋嶋城(やしまのき、やしまじょう)は、讃岐国山田郡(現在の香川県高松市)の屋島にあった古代山城である。
その歴史は古く、日本書紀には、天智天皇6年(667年)に天智天皇が唐軍の襲来に備え屋島に城を築いた旨が記されている。 いまでも城門遺構(南嶺)や、石塁(北嶺の西面)、貯水池跡などが残されている。また、南嶺には8世紀に鑑真が創建したと伝える屋島寺がある。
2001年(平成13)に高松市教委が城門遺構を発掘したことにより、その存在が確かになった。

古代山城はなぜ造られたのか古代山城はなぜ造られたのか

朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の三国のうち、親日的であった百済が唐と新羅に攻められ660年に滅亡します。そこで、大和朝廷は、朝鮮半島での倭(日本)の勢力回復を図るため、663年に大軍を朝鮮半島に送りましたが、倭・百済の連合軍は唐・新羅の連合軍に白村江の戦いで大敗しました。このことから、やがて唐・新羅の連合軍が倭へも侵攻してくるのではないかとの懸念から、大和朝廷は対馬・九州から瀬戸内海沿岸にかけて防御用の城を築きました。

現在確認されている古代山城には、日本書紀や続日本紀などの官選史書(国が作った歴史書)に記述があるものと、記述が無いものの2通りが存在しますが、近年、解明が進んでいる古代山城の調査成果からは、確認されている古代山城の多くが白村江の敗戦を契機として整備されたものであると考えられるようになりました。

参考:
屋嶋城 – Wikipedia
屋島 – Wikipedia
四国高松 庵治・牟礼・屋島:庵治・牟礼・屋島「源平の里ガイドマップ」
よみがえる屋島城(やしまのき)-四国新聞社
私の写真日記:屋島城跡
おかやまの自然公園-瀬戸内海国立公園
朝鮮通信使来朝図 文化遺産オンライン
瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会

イベントレポート

屋島城跡見学会、300人参加/古代に思いはせる – 四国新聞


高松市教委の担当者から復元作業の概要などを聞く参加者=香川県高松市屋島東町

高松市教委は5日、昨秋から城壁の石積み復元工事を進めている古代山城・屋島城(やしまのき)跡で現地見学会を開いた。市民ら約300人が訪れ、城門遺構などの構造を学び、1300年余の時を超えて姿を現した石垣に感動しながら、古代の屋島に思いをはせた。

 復元しているのは、屋島南西部の山頂近くに残る城門遺構の南側の石垣(高さ約6メートル・長さ約35メートル)。現在、約3メートルの高さまで積み直し作業は進んでおり、今秋には積み終わる予定。

 この日は市教委の文化財専門員が、屋島城の構造上の特徴や復元方法などを解説。その中で「周辺から出土した赤茶色の安山岩を用いて積み直しているが、数が足りないため、坂出市で調達した安山岩を成型して使っている」と説明。「原形をとどめている箇所が少なく、クレーンで一つずつつり上げ、何度も置き直しながら、慎重に作業を進めている」と報告した。

 参加者からは、ほかの古代山城との違いや、屋島城の役割に関する質問などが寄せられていた。

 市教委は城門南側の積み直しが終わった後、北側の復元に着手。見学スペースも整備して、2015年度から一般公開する予定。

 屋島城は日本書紀に記述が残る朝鮮式古代山城の一つ。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐、新羅の連合軍に敗れた大和朝廷が、大陸からの侵攻に備えて築いた。